江戸時代の札幌村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 06:00 UTC 版)
札幌村近辺は、石狩川の左岸側の低地であり、現在は消失した小川も含めかつては多数の支流が流れていた。川には鮭が遡行するため、蝦夷(アイヌ)の良い漁場であった。もともと、この付近を流れる伏籠川(伏古川)上流付近には松前藩によって知行地のひとつナイホウ場所(現在の苗穂町付近。石狩十三場所に含まれた。)が開かれ蝦夷の人々との交易が行われていた。 江戸時代初期、石狩平野にはいわゆる和人はほとんど居住していなかったようである。しかし近藤重蔵をはじめ当時の北方政策の立案者、提唱者たちの多くは、地勢を理由に石狩平野に蝦夷地の中心を置くべきだと考えていた。 幕末になると、安政年間には本龍寺が建立される。その後幕府の御手作場、すなわち幕府直営の農場を設けることになり、慶応2年(1866年)4月に大友亀太郎が12人を伴い、伏篭川のほとりに役宅を建て村を開いた。大友らは森林を切り開き、道路を作り、交通と用水のための大友堀(後の創成川)を引き、後続の移民を受け入れて戸数を増やした。また、慶応年間には本龍寺境内に妙見堂も建立されている。当面の食糧を給付する約束での移住であったが、直後に幕末維新の体制変革にあたって、給付が途絶え、村民からは離散者が出た。後に北海道11国86郡が制定され、村は石狩国札幌郡に属した。
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