正保の騒動とは? わかりやすく解説

正保の騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)

弘前藩」の記事における「正保の騒動」の解説

正保4年1647年)、3代藩主信義強制隠居嫡子信政廃嫡させ、信義異母弟幕府旗本幕府覚え良い信英を藩主擁立しようとする主君押込企てがあった。計画段階信義密告があり、大きな騒動となる前に防がれている(この密告者は信英の弟の津軽助信隆と家老北村宗容だとされている)。異母弟(信光、為盛、(大道寺)為久)や妹婿すらも処罰したが、信英の身柄については、信英本人関与明らかでないこと、既に幕府直参旗本身分であったために津軽藩自由にできないこと信義自身が信英に好意的であったことからなにも咎められなかった。 企て背景には複数の要因があったとされるそのうち主なものは以下のようなのである信義藩政功績がある反面酒乱であり女性関係にも問題があった、などと今日では伝わる。それら不行跡幕府の目に留まり、藩が処罰されることを恐れた。 信英は幕府小姓として召し出され大身旗本取り立てられており幕閣覚えがよく、文武ともに優秀であった。 船橋騒動前述)後から信義積極的に藩政指示し藩主権力の強化努めたため、既得権益失いたくない一派反発した信義長男だが母は側室辰姫であり、辰姫は、関ケ原の戦い家康戦って敗れ刑死した石田三成三女で、豊臣秀吉正室高台院養女だった。すなわち信義は「豊臣に縁があり、なにより石田三成の孫」にあたる。それに対し、信英は次男ではあるが母は正室満天姫であり、「徳川家康義理の孫」である(ただし信英の母は満天姫ではないとする説もある)。そのため幕府感情への配慮、また幕府阿るため、先代の頃から信英を擁立した一派存在していた。 関係者流罪切腹となったが、告発したとされている一人北村宗容は翌慶安元年1648年1月17日弘前城中で遺恨持った村山左衞門村山滋朝)により殺害されている。村山は元は信英擁立派であり、同派の仲間処罰切腹させられた際、村山介錯命じられていた。

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