船橋騒動とは? わかりやすく解説

船橋騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)

弘前藩」の記事における「船橋騒動」の解説

寛永11年1634年)、3代藩主信義時に起こった御家騒動2代藩主・信側室辰姫は藩の飛び地上野国大舘暮らしており、3代藩主となる信義大舘産まれ育ったその時乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣船橋左衛門の妻である。 元和9年1623年)に辰姫死去したため、信義江戸弘前藩邸に引き取られ、信死後の寛永8年1631年)に13歳藩主となったそれに伴い信義幼少の頃から近侍していた船橋左衛門親子権力にわかに強力となる。藩内では元々古参譜代家臣新参者家臣の間に対立生じており、これを契機新参家臣らが船橋左衛門集まって双方対立決定的となった。同10年(1633年)10月信義津軽領内初国入りした際に船橋も供をし同時に入国したが、領内高杉村まで出迎えた国許家臣らに対し船橋下馬もせず、挨拶もなかったため、彼らの怒り買ったと伝わる。12月船橋は1,000石が与えられ一方これまで国許政務を執ってきた譜代家老である兼平信孝乳井建定家老職罷免された。 寛永11年1634年7月信義3代将軍徳川家光の上洛に同行し翌月江戸藩邸帰りつく。この時譜代派の家臣江戸の町家に立て篭もり船橋左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得あたった失敗結局幕府介入して藩主信義船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問し騒動解決はかった裁定下ったのは2年後寛永13年1636年)、信義若年であり態度神妙であることから咎めはなく、喧嘩両成敗として譜代中心人物乳井建定兼平信孝長門毛利家船橋左衛門・長仍親子乾安儔らは伊予松山藩松平家松平定行お預けとなった

※この「船橋騒動」の解説は、「弘前藩」の解説の一部です。
「船橋騒動」を含む「弘前藩」の記事については、「弘前藩」の概要を参照ください。

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