船橋騒動
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寛永11年(1634年)、3代藩主・信義の時に起こった御家騒動。 2代藩主・信枚の側室・辰姫は藩の飛び地領上野国大舘で暮らしており、3代藩主となる信義も大舘で産まれ育った。その時に乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻である。 元和9年(1623年)に辰姫が死去したため、信義は江戸弘前藩邸に引き取られ、信枚死後の寛永8年(1631年)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって、双方の対立は決定的となった。同10年(1633年)10月、信義が津軽領内へ初国入りした際に船橋も供をし同時に入国したが、領内高杉村まで出迎えた国許家臣らに対し、船橋は下馬もせず、挨拶もなかったため、彼らの怒りを買ったと伝わる。12月に船橋は1,000石が与えられ、一方これまで国許で政務を執ってきた譜代の家老である兼平信孝と乳井建定が家老職を罷免された。 寛永11年(1634年)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行し、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入して藩主・信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。 裁定が下ったのは2年後の寛永13年(1636年)、信義は若年であり態度も神妙であることから咎めはなく、喧嘩両成敗として譜代派中心人物の乳井建定・兼平信孝は長門の毛利家、船橋半左衛門・長仍親子や乾安儔らは伊予松山藩松平家の松平定行にお預けとなった。
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