来歴の諸説とは? わかりやすく解説

来歴の諸説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/22 13:37 UTC 版)

大沢次郎左衛門」の記事における「来歴の諸説」の解説

寛永諸家系図伝によれば初め斎藤氏の臣で、妻は斎藤道三の娘という。『太閤記』には、永禄9年1566年12月に、木下秀吉調停によって織田信長降り翌年1月5日秀吉同道して清須赴く信長殺されそうになり、秀吉の策によって逃れたとあるが、『信長公記』では鵜沼城攻略永禄7年1564年8月としていて、そのまま信用できないその後信長の臣としての活躍史料になく、信長死後天正10年1582年8月24日北近江支配者となった柴田勝豊から、阿閉貞大旧領浅井郡の地を与えられている(士林証文)。その後秀吉豊臣秀次仕え、2,600石を知行したが、秀次の自害後は流浪し美濃経て小田原万松院寓居し、76歳で死去したという(寛永諸家系図伝)。 また、美濃雑事紀』の「城山古城」の項によれば和泉国和泉郡葛城山坂本城主の大沢和泉守正基の子大沢和泉守正吉が、宇留馬(鵜沼)に来て山霧城主となり、永楽銭3,000貫文の地を領知していたが、永禄5年8月15日信長攻められ、子の源次郎正成とその妻ともども討死した。正吉法号は、月窓祐円信士、正成夫妻法号は、喜伯宗禅定門大道妙泉禅定尼といい、三人弔う三つ塚」が、各務原市鵜沼羽場町にある。正吉の子次郎左衛門正継は、出家して明応2年1493年)に蓮如弟子となり、法名を了西として鵜沼住んだ後、犬山坂村小島里に移って西蔵坊を建てた西蔵坊は後に本龍寺改め、正継の嫡男相続し次男勘解由丞正継は、甲斐国山梨郡立川庄鎮目移住したという。 同じ『美濃雑事紀』の「宇留間城」の項では、大沢和泉守藤原正広と子の大沢治郎左衛門正次が永禄年間1558年 - 1570年)まで宇留間城にいて、大沢氏永禄年間秀吉の謀によって信長降り秀吉がしばらく宇留間城にいたとする。 『濃陽志略』には、城山鵜沼城主大沢和泉守正広永禄年間死去し、子の次郎左衛門正次が後を継いだが、信長攻められ城を焼いて退去したとある。 『美濃国諸旧記』では、各務郡鵜沼城主は大沢治郎左衛門為泰で、異母弟主水為之がいたが、為泰は永禄年間信長疑いを受け、城を出て行方知れずになったという。 『濃陽諸士伝記』では、鵜沼城大沢六郎左衛門は、永禄初め秀吉調略により味方にしたが、信長がその変心恐れて殺害しよう謀ったことを聞き鵜沼城から落ち延び行方不明になったとする。 また、豊臣記』では、大沢謀略巡らし味方にした秀吉信長称えるが、変心恐れて信長大沢殺そうとし、秀吉信長再三許しを請う聞き入れられず、刀を大沢与えて退去させたとする

※この「来歴の諸説」の解説は、「大沢次郎左衛門」の解説の一部です。
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