来歴の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 07:52 UTC 版)
『大越史記全書』などの史書によれば、北江古法州亭榜村(現在のバクニン省トゥーソン市ディンバン坊(ベトナム語版))の出身で、現在のディンバン坊には李氏の墳墓と家祠が残されている。ただし、史書に李公蘊の出生時の詳しい状況を明確に記したものはない。『大越史記全書』には李公蘊が即位した折、亡父に顕慶王(中国語版)の追号をしたとの記録がわずかにあるが、実父に関するそれ以上の記載はない。母の家系についても、母は范氏という名の女性だったという事実を除いてほとんど知られていない。 ベトナムの民間伝承によれば、李公蘊には父親がなく、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わり、その後に李公蘊を産んだという。3歳の時、母は李公蘊を古法寺の法師である李慶文の養子とした。 李公蘊は泉州の閩南民系であるという。宋の沈括が著した『夢渓筆談』の記載によれば、李公蘊は閩人とされている。泉州晋江県安海鎮(中国語版)で発見された『李荘𤆬内李氏房譜』による李氏の家系に関する記載によれば、李公蘊は李淳安の次男で、幼少時に父に従って泉州を離れ、安南に移住した。ただ長兄の李公澡のみは安海に残り、その地の李氏の始祖となった。 華僑大学(中国語版)華人研究所教授の李天錫は、『宋史』と『元史』の記述を考証した上で、李公蘊と後の陳朝初代皇帝陳煚は泉州安海の閩南民系であるとする。この他、ある学者は李公蘊は唐の太宗の十四男の曹王李明の後裔との説を立てている。少なくとも李公蘊の父の家系が中国の民族的な背景を持っていたことは、ベトナムの歴史家チャン・クオック・ヴオンによって受け入れられている。
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