朝堂機能の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:45 UTC 版)
政務における実務が宮内の曹司でおこなわれるようになったため、朝堂での政務そのものは儀式化の傾向が進み、年中行事の運営などが中心になっていった。また、それにともなって朝堂一郭の規模は、藤原宮を頂点に時代を下るごとに縮小化の傾向がみられた。儀式化した政務に陣定などの評定や訴訟が複合していったが、これらは総称して公事とよばれた。 朝堂建物のつくりをみると、平城宮を頂点に四面庇から二面庇へ、さらには庇なしへ、屋根構造も入母屋または寄棟から切妻へと、簡素化の傾向がみられる。これは、朝政の盛衰と深くかかわる変化であろうことがうかがわれる。 朝堂配置の面では、上述のとおり、平城宮までは天皇の起居する内裏と朝堂院は接していたが、長岡宮にいたって完全に分離するいっぽう、元来は内裏の前殿であった大極殿がむしろ朝堂の正殿としての性格を強め、平安宮では大極殿前面の回廊が取り払われて、大極殿と朝堂一郭が完全に一体化した。大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語も長岡京期に生まれた。 こうして公的な政務の場である朝堂院と天皇の私的な住まいである内裏は分離されたが、律令体制の変質によって、以上のような平面変化がかえって内裏を政治の新たな中心の場とし、朝堂院はむしろ全体として儀式の場としての性格をいっそう強く帯びることとなった。院政を経て武士政権が成立すると、かつて朝堂が担ってきた役割や機能にもはや積極的な意義は見いだせなくなった。それが安元以後、ついに朝堂が再建されなかった理由であると考えられる。
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