更生プログラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 23:50 UTC 版)
飢饉などで田畑を捨て江戸に流れ込んできた元農民などの無宿者や入墨、敲(鞭打ち刑)などの処分を受けた軽犯罪人を3年間ほど収容した。平松義郎によれば、1862年(文久2年)~1865年(慶応元年)の間に江戸で15歳以上の男性庶民が追放刑に処せられた者の内約8割が、入墨・敲刑に処せられた者の内約2割が加役方人足寄場に収容されていると指摘している。また、女性(15歳以上)は入墨・過怠牢舎(敲に該当する罪を犯した場合、1敲き1日計算で牢屋敷に牢舎させる刑罰)が科刑された上で、7人(入墨と過怠牢舎の両方を科せられた者も含む。)が収容されている。 寄場では、主に生活指導や職業訓練による自立支援・再犯防止のためのプログラムが行われていた。 大工、建具製作等の特技を持つ者にはそれらを訓練させ、特技のない者には単純な軽作業(手内職)や土木作業を指導した。 現在の刑務所と同様に労働に対する手当を支給したが、手当額の一部を強制的に貯金し、3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付し、彼らの更生資金に当てさせるというシステムだった(人足寄場より)。 生活指導プログラムとして、月3回三のつく日の暮六つ時から五つ時まで石門心学(神道・仏教・儒教を混ぜて仁義忠孝や因果応報などの教訓や逸話を分かりやすく説く)の大家・中沢道二の講義も実施された。収容者はその講話に感動してよく涙を流したといわれ社会復帰にあたっての精神的な支えになった。現在の教誨にあたる。 収容期間の満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を、農民になる者には田畑、大工になる者にはその道具を支給するなどした。ただし収容された無宿者は元々が犯罪者崩れだったため、収容中に様々な問題を引き起こすことも多かった。 囲いの外に出して土木作業をさせると「公儀の御人足だ」と称して周辺の百姓達を困らせる。 竹橋にある勘定所の文書倉庫で書類整理をさせると、役人が書き損じた書類を勝手に破いて寄場に持ち帰る。 監視役の同心が説教しても開き直る(「どんなことをしても首が落ちるだけ。首が落ちるのを怖がっていられぬ」)。
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