日産コンツェルン傘下に入った山陽無煙炭鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
「大嶺炭田」の記事における「日産コンツェルン傘下に入った山陽無煙炭鉱」の解説
1931年(昭和6年)6月、山陽無煙炭鉱は大嶺無煙炭鉱を合併した。その結果として両炭鉱間の競争は無くなったものの、採掘条件の悪化と移輸入無煙炭の増加という炭鉱経営の悪材料はそのままであった。採掘が容易な部分の採炭から深部の石炭採掘へと転換していかねばならなくなったため、坑口の集約や機械採炭など経営の合理化に努めたものの、設備投資に充てる資金不足はいかんともし難かった。大嶺炭田内の各炭鉱の経営状況は1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)頃が最悪で、山陽無煙炭鉱では1934年(昭和9年)夏季からはボーナスの支給がストップし、給与も金銭ではなく会社の借用証書を渡されるといった事態がしばしば発生した。この苦境は1936年(昭和11年)4月に山陽無煙炭鉱が日産コンツェルン傘下に入るまで続いた。 山陽無煙炭鉱は厳しい経営難に立たされたものの、調査の結果、深部の石炭採掘を行っていけば将来性があることが分かった。そこで深部開発に取り組めるような売却先を探していくことになった。まずは三井系と三菱系が候補となり、会社内で論議の結果、まずは三菱系に打診してみることになった。打診を受けた三菱側は山陽無煙炭鉱に綿密な調査を行った結果、買収を断った。身売り先が見つからないまま会社の経営はますます苦しくなっていく。そのような中、日産コンツェルンの鮎川義介とつながりができた。結局、鮎川の日産コンツェルンが山陽無煙炭鉱を引き受けることになった。 日産コンツェルン傘下に入った山陽無煙炭鉱は、有ノ木、荒川、第二荒川の3炭鉱を買収した。長門無煙炭鉱から海軍省の炭鉱経営を経て、山陽無煙炭鉱となった後、野口遵が創業し規模を拡大した大嶺無煙炭鉱を合併し、更に3炭鉱を買収したことによって、山陽無煙炭鉱は大嶺炭田全体の4分の3を超える鉱区を占めるようになり、炭田内で圧倒的な経営規模となった。 日産コンツェルン傘下に入った頃から、大嶺炭田をめぐる情勢は好転してきた。まずは練炭市場で再び大嶺炭田の無煙炭が売れ出すようになった。昭和に入る頃から家庭用燃料として、木炭に替わって良質かつ安価な燃料である練炭の需要が増大し、主要都市では練炭工場が次々と建てられた。当時の練炭の原料は、主としてフランス領インドシナのホンゲイ炭と平壌無煙炭であったが、旺盛な練炭需要のおかげで大嶺炭田の無煙炭の販売も回復してきたのである。また戦時体制が強化される中で、石炭の増産が求められるようになった。その結果、売れ行き不振で溜まっていた貯炭も無くなっていき、また新たに炭鉱経営を開始する中小炭鉱も現れるようになった。
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