日本における神智学協会
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「神智学協会」の記事における「日本における神智学協会」の解説
「神智学#〈神智学〉運動と日本」も参照 類似宗教学者(自称)の吉永進一は、日本の霊性文化における〈神智学〉の重要度はアメリカに比べると1960年代までは低く、明治期から紹介されたにもかかわらず、当初は常に忘却されていたと述べている。〈神智学〉が一般に広まったのは、「精神世界」の流行や「第三次宗教ブーム」が見られた「1970年代から80年代」以降で、「精神世界ブーム」(現在の「スピリチュアル」)の重要な一角を占めている。 日本の「神智学協会」の活動としては、明治22年にはオルコットが来日し、文献が翻訳され神智学ロッジが作られたが、評価は一部の仏教青年に限られ、仏教復興運動が軌道に乗ると、〈神智学〉は忘れられた。明治40年代には、海軍機関学校の講師であったE・S・スティーブンソンというポイント・ローマ派の人物が逗子にロッジを開き、ブラヴァツキーの書籍を翻訳している。 大正期には、詩人・慶應義塾大学英語教員のジェイムズ・カズンスが中心となり、アディヤール派のロッジ活動が行われ、大正9年に東京国際ロッジが開設された。その後鈴木大拙夫妻が京都にうつると、このロッジは閉鎖された。大正13年には、大拙の妻鈴木ビアトリスが大谷大学、龍谷大学の教員を中心に大乗ロッジを発足させた。これにはアメリカのハリウッドにあるクロトナ神智学学院に滞在した宇津木二秀も参加し、京都での活動は宇津木と鈴木大拙夫妻が中心となって行われた。ロッジ活動は低迷していたが、〈神智学〉の思想は大正時代以降、ある程度広まった。 昭和期には、教育者・牧師・翻訳者であった三浦関造(1883年 - 1960年)が〈神智学〉に興味を持ち、精神療法家兼子尚積との出会いや見神体験を経て霊的な実践家として活動するようになった。昭和5年にはアメリカに滞在し、サンディエゴのポイントロマの神智学協会で講演を行い、〈神智学〉の影響を受けたメタフィジカル教師たちと交流した。神智学的なメシア論を展開し、戦中はファシスト的オカルティストと提携していた。昭和28年にスワーミー・ヨーガーナンダのヨーガ技法を集めた『幸福への招待』(東光書房、1953年)を著し、最晩年の7年間は神智学・ヨーガ教師として活動し、神智学ヨガ団体「竜王会」(綜合ヨガ団体竜王会)を結成した(ただし、竜王会発足後に三浦が紹介したのはヨーガーナンダのヨーガではなく、インドのヨーガは堕落しており、アリス・ベイリー、ポール・ブラントン、モーリス・ドーリルなどを学ぶことが重要であると主張する一方、「いかがわしい誤謬だらけの西洋模倣ヨガの本を悉く捨ててしまいなさい」とも述べている)。 三浦によって「竜王文庫」が設立され、機関誌『至上我の光』(昭和29年創刊)を刊行し、三浦の生前には自著や〈神智学〉、ヨガの書籍が10冊ほど出版された。当時は冷戦時代であり、三浦は終末思想を展開したドーリルの教説に特に傾倒し、ブラヴァツキーの霊的進化論、新時代の到来と終末思想、マスター(マハトマ)と彼らが住むシャンバラの存在、救世主の待望、地球空洞説、ユダヤ人陰謀説などを背景に、自身の神格化を強め、竜王会は一種の宗教団体に近くなっていった。昭和35年に三浦が死去したため、竜王会の終末思想は激化することはなかった。会長職は娘の田中恵美子が継いだ。竜王文庫は三浦の著作などを刊行し続け、1970年代まで〈神智学〉思想の数少ない供給源であった。 1971年(昭和47年)に、竜王会の内部部門として神智学協会日本支部である「神智学協会ニッポン・ロッジ」が作られ、田中恵美子が初代会長となった。田中恵美子が1995年に没した後、1996年から2003年まではジェフ・クラークが第2代会長を務めた。神智学ニッポン・ロッジは、2003年に竜王会と分かれ、インドのアディヤールに国際本部がある神智学協会(神智学協会アディヤール)直属となった。杉本良男は、近年はあまりめだった活動は行っていないようであると述べている。
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