日中関係と1972年総裁選
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「三木武夫」の記事における「日中関係と1972年総裁選」の解説
河野謙三が木内四郎を破って参議院議長となる直前の1971年(昭和46年)7月15日、アメリカのニクソン大統領は中華人民共和国との国交正常化交渉の開始を発表した。更にニクソンは8月15日に金とドルとの兌換停止などを骨子とするドル防衛策を発表する。政権が発足して7年目となる佐藤政権には、このような世界の新しい流れに対応出来る活力が失われており、強力であった佐藤政権もその限界が明らかになってきた。佐藤、そして佐藤が後継者候補と考えていた福田にとって、日本の頭ごなしで進められた米中の歩みよりは特に打撃が大きかった。日中国交正常化は佐藤政権や佐藤の息がかかることになる福田政権では困難であるとの声が高まりつつあった。 三木は松村謙三、高碕達之助らとともにかねてから中華人民共和国との国交正常化に積極的であった。1971年(昭和46年)8月21日、中華人民共和国との国交正常化に尽くした松村謙三が死去し、松村の葬儀に中日友好協会副会長の王国権が参列した。中曽根康弘総務会長は佐藤首相と王国権との会談が行われるように調整したが、会談は行われなかった。一方、8月29日に三木は王と会食を行い、訪中を約束した。当時三木は超党派議員によって構成されていた日中議連が提出した、日中正常化決議への署名を差し控えていた。これは佐藤の後継者候補として野党との無原則な共同歩調を避け、日中関係の実効ある進展を目指したものとされている。 1972年(昭和47年)4月13日、三木はブレーンの大来佐武郎、平沢和重、娘婿の高橋亘、秘書の竹内潔らとともに香港経由で北京に向かい、周恩来首相と会談を行った。三木はマスコミの同行要請を拒絶し、周恩来との会談内容も極秘とされた。会談の内容は政治家ではないとのことで三木と周との会談同席を許された高橋亘のメモを、三木自らが清書したと考えられるものが残されており、会談の中で三木はまず日中国交回復に全力を尽くす決意を述べた上で、国交回復のために解決すべき問題について、現実的かつ条件を慎重に切り出す政治的な発言を行い、周との間で意見調整を図った。 帰国後、三木は自民党の実力者などを精力的に回り、日中国交正常化の機が熟しつつあると訴えた。このような中、佐藤は沖縄復帰を花道に引退を表明し、佐藤の後継総裁選びの動きが活発化していた。佐藤派内では急速に田中角栄の影響力が拡大しており、佐藤が後継者として考えていた福田に迫りつつあった。そして三木は6月21日に総裁選出馬を表明する。 当時、三木派内には早川崇を中心とした親福田グループがあり、中曽根派も野田武夫らが親福田であった。しかし総裁選を前にして野田武夫が急死したこともあり、中曽根は総裁選への出馬を見送り田中支持を表明する。総裁選を前にして三木は田中との会談に臨んだ。会談に同席した金丸信の回想によれば、三木は部屋に入るなり座ろうともせず、立ったままで「日中問題をやるか」と、田中に詰め寄った。田中は三木の日中国交正常化に取り組むとの条件を飲み、三木は決選投票では田中を支持することとなった。7月2日には総裁候補の田中、大平、三木が記者会見を行い、日中国交回復を目指すなどの政策合意事項が公表され、第一回投票で三候補のうちでトップとなった候補に、決選投票で投票することが決められた。この結果、田中は後継総裁レースで極めて優勢となった。 1972年(昭和47年)7月5日、三木の他に田中、福田、大平の四名が立候補した自民党総裁選の第一回投票で、三木は69票と最下位の四位となり惨敗する。この時の総裁選では多額の金銭が動いたとされているが、海部俊樹の回想によれば三木の陣営も金を配った。そして田中と福田の間で行われた決選投票の結果、田中、大平、三木、中曽根の四派の支持を固めた田中が圧勝し、田中が佐藤の後継総裁となることが決定する。
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