政界進出と戦後政界への復帰とは? わかりやすく解説

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政界進出と戦後政界への復帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:00 UTC 版)

緒方竹虎」の記事における「政界進出と戦後政界への復帰」の解説

朝日新聞社退社後、小磯内閣国務大臣情報局総裁として入閣した緒方は、一方で言論暢達政策を採り、他方編集責任者に対して新聞社許される自主性大枠に関する内面指導行ったこのような緒方新聞指導は、情報局総裁たる緒方戦局に関する十分な情報入手していることを必要としたが、実際に陸軍の非協力などにより叶わなかった。情報政策担い手たる情報局が、何ら自前情報収集源を持てなかったことは致命的だった。 また緒方は、蔣介石重慶国民政府相手とする和平工作繆斌工作)を首相小磯國昭とともに推進したが、外務大臣重光葵陸軍大臣杉山元海軍大臣米内光政、さらに昭和天皇反対に遭い失敗内閣総辞職となったその後終戦挟んで1945年昭和20年5月鈴木貫太郎内閣内閣顧問8月には東久邇宮内閣国務大臣内閣書記官長情報局総裁就任した敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方内閣書記官長内閣大番頭務め文部大臣元朝日新聞社論説委員前田多門内閣総理大臣秘書官朝日新聞社論説委員太田照彦、緒方秘書官朝日新聞記者中村正吾、内閣参与元朝日新記者田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した同年10月内閣総辞職後、12月6日にはGHQから逮捕命令発出される(第四次逮捕者9名中の1人)。1946年昭和21年8月公職追放1947年昭和22年9月A級戦犯容疑解除1951年昭和26年8月追放解除となっている。A級戦犯容疑指名なければ敗戦社内緒方派と反緒方派対立再燃して自らも調停乗り出し村山長挙辞任していた朝日新聞社社長に就任するはずであった追放解除翌年にあたる1952年昭和27年10月第25回衆議院議員総選挙中野正剛地盤引き継いで福岡1区から出馬し地元財界支持得て当選する第4次吉田内閣当選1回ながら、国務大臣内閣官房長官、さらに副総理任命され、翌1953年昭和28年5月成立第5次吉田内閣でも副総理就任した。この政界での急速な階梯昇段要因には、吉田茂政治指南役だった古島一雄紹介や、吉田重光葵後任として東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、近衛文麿緒方推薦よるものだったことなどが挙げられる。 なお、緒方政界復帰前の1952年昭和27年4月吉田茂村井順とともにアメリカCIAイギリスMI5MI6などを参考にして、内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関設立した。これが現在の内閣情報調査室源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関いわゆる日本版CIA新設する構想持っており、吉田内閣入閣でこの構想一挙に表舞台登場したが、国会外務省世論激し批判浴び第5次吉田内閣の下で内調拡充強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方動きを、アメリカCIA高く評価した

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「政界進出と戦後政界への復帰」を含む「緒方竹虎」の記事については、「緒方竹虎」の概要を参照ください。

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