政界進出と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 19:55 UTC 版)
1917年(大正6年)、立憲政友会より衆議院議員となった。1923年(大正12年)には再選を目指して選挙活動に大金を投じたものの落選した。 1924年(大正13年)には失火によって青山脳病院を焼失、世田谷の松原村に移転して精神病院の本院を置き、青山南町は「分院」として小規模に再建した。1927年(昭和2年)、青山脳病院で相次いだ不祥事によって斎藤は院長職を辞し、45歳の精神科医となっていた養子、茂吉に同職を譲った。 喘息を患っていた斎藤は1928年(昭和3年)11月17日午後3時、療養先であり、度々逗留していた熱海の旅館、「福島屋」において、心臓麻痺を起こして死亡した。斎藤の死亡通知書は、伯爵・後藤新平の名前で出された。一方、斎藤は複数の愛人問題を抱えており、斎藤家には斎藤の死に前後して、関係した女性らからの莫大な慰謝料請求が届いたという。
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