戦後の札幌時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 01:19 UTC 版)
1945年(昭和20年)、単身上京して就職活動。旺文社に就職して辞書編纂に従事したが、翌年退職。俳句仲間3家族で北海道石狩に妻子とともに入植したが、2年足らずで身体を壊して離農した。札幌に出て青磁社に入社、更科源蔵を識る。1948年(昭和23年)、青磁社の東京引き揚げに伴い失職。日雇いの肉体労働で食いつなぐ。1949年(昭和24年)、北海道農民新聞社入社。歴程同人長光太を識り、現代詩への関心を深める。神谷光信が長光太から直接聞いたところでは、当時の鷲巣は「キリスト教のキの字も口にはしなかった」。1950年(昭和25年)、北海道開発協会嘱託。第一詩集『悪胤(あくいん)』を北方詩話会から刊行。吉田一穂から礼状が届く。札幌市教育研究所、北海道平和社を経て、1951年(昭和26年)、興国印刷株式会社に校閲者として就職してようやく生活が安定した。札幌時代に、英・仏・独・伊・西・露・希・羅などを独習して、諸外国の詩文に原語で親しんだ。第2詩集『末裔の旗』をさろるん書房から刊行。1954年(昭和29年)「日本未来派」同人。第3詩集『蛮族の眼の下』をさろるん書房から刊行。1956年(昭和31年)、和田徹三の形而上詩誌「湾」に3号から参加、以後同人として長く活動した。1957年(昭和32年)、第4詩集『メタモルフォーシス』を日本未来派から刊行。1960年(昭和35年)頃から、それまで忘却していたギリシア正教の世界に傾斜を深めた。1960年(昭和35年)、日本現代詩人会入会。鍵谷幸信、渋沢孝輔、多田智満子、寺山修司、藤一也らが同期だった。1961年(昭和36年)、第5詩集『魂のための神聖劇:神人序説(じんにんじょせつ)』を湾の会から刊行。1965年(昭和40年)、高橋睦郎が札幌の鷲巣を訪問、以後交友を結ぶ。1966年(昭和41年)、第6詩集『世の果への旅:ダニール・ワシリースキーの書第壱』を詩苑社から刊行、自覚的なキリスト教詩人として再出発する。詩苑社は、横浜商業学校の後輩に当たる詩人河合紗良の出版社である。この年、寺田透との文通始まる。1967年(昭和42年)継母が横浜で永眠、葬儀に参列し、帰札前に、吉岡実、安西均、加藤郁乎、高橋睦郎らと交歓。同年、札幌の鷲巣宅を小島俊明が訪問。1968年(昭和43年)、寺田透の東大での教え子だった中村健之介が北海道大学に着任し、鷲巣を訪問。1970年(昭和45年)、寺田透が『文藝』の月評で鷲巣「マルキオン」を好意的に紹介。
※この「戦後の札幌時代」の解説は、「鷲巣繁男」の解説の一部です。
「戦後の札幌時代」を含む「鷲巣繁男」の記事については、「鷲巣繁男」の概要を参照ください。
- 戦後の札幌時代のページへのリンク