徳川氏の創設とは? わかりやすく解説

徳川氏の創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:20 UTC 版)

徳川氏」の記事における「徳川氏の創設」の解説

永禄9年1566年)、官職得ていて朝臣でもあった松平家康朝廷許可得て家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上改姓)し、従五位下三河守叙任された。このとき正親町天皇先例のない申請に対して躊躇し不信述べたが、吉田兼右万里小路家文書改鋳し、新田氏得川氏二流分かれ一方が「藤原姓となったという先例発見されたとした。この件には近衛前久関与しており、その経緯を子である近衛信尹送った書状現存している。 ここで重要なのは、松平一族徳川改姓したではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである(嫡男信康については、名乗った説とそうでない説、徳川氏名乗っていたが没後江戸幕府後述方針その事実が抹消された説がある)。「徳川」姓は、家康個人松平氏内部専制権力確立して派生した松平一族家臣団統制するために使われたと考えられる初代家康慶長10年1605年)に将軍職当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を許されたのは、世子秀忠ただ一人であった公認される限り11人いた家康男子徳川姓を許されたのは、三男世子秀忠、及び御三家の祖となる九男義直・十男頼宣・十一男頼房(1636年寛永13年7月徳川賜姓し、松平姓から改姓した)の4名にすぎない。後の3名は、秀忠二代当主将軍になって以後元服したのであるその後将軍家のほかに徳川姓を許されるのは、家康直系の子孫(親藩)のうちでも特に徳川御三家尾張家紀州家水戸家)、御三卿田安家一橋家清水家)およびこれらの後嗣のみ(但し、一時期これら以外に駿河徳川家甲府徳川家館林徳川家存在した)だった。 それ以外親族松平氏称し、また武士徳川氏を名のることは憚り農民町人原則として苗字使用許されなかったため、徳川苗字絶対的権威を持つこととなった

※この「徳川氏の創設」の解説は、「徳川氏」の解説の一部です。
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