徳川氏→武田氏→隠棲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:03 UTC 版)
武田軍が三河に侵攻してきた元亀2年(1571年)以降には、これまで通り家康服属を説く嫡子・定能を制して、武田氏服属を決定するなど、隠居でありながら家中での発言力を保持していたことがうかがえる。天正元年(1573年)8月21日、貞能が孫の信昌ばかりか末子・貞治ら家中の大半を引き連れて武田氏を離反し徳川氏に再属した際には、貞勝は次子・常勝など少数派とともに武田方に留まった。長篠の戦いに参戦した模様(『信長公記』)であるが、やがて同合戦で勝利した貞能が徳川氏・織田氏の後押しで勢力を伸ばすと、菅沼氏一族とともに三河の所領を放棄して、甲斐に移住した。 その後、武田の滅亡で甲斐に留まれなくなった貞勝は、子の貞能を頼って三河額田郡に隠棲した。本来、武田滅亡後に家康への再属を願い出た三河出身者には、厳しい処分が待っており、次子・常勝などは殺されたが、老齢の貞勝は咎められなかった。貞能らの嘆願が在ったものと考えられている。文禄4年(1595年)に没した。享年84。
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