後世への影響 その1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:27 UTC 版)
「我思う、ゆえに我あり」の記事における「後世への影響 その1」の解説
以後の哲学は現代に至るまでこの影響を色濃く残しており、同時に、それに対する批判も生まれている(例えばカント『純粋理性批判』やフッサール『デカルト的省察』などにおける批判)。現代ではしばしば、デカルトのコギトの存在確立が近代の幕開けとなったといわれ、ポストモダンなどの見地から様々な形で批判されることがある。しかし、一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。例えば、哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。しかし、デカルトにとって、「(1)全て考えるものは存在する」は、未だ疑わしい。意識作用の直接性から「直観として」導かれたものが、コギト命題である。故に、これを単なる論理の推論と考えるのには慎重を要する。これはむしろ「いかなる推理(syllogism)からも帰結(concluditur)されない或る根本的な観念(prima quaedam notio) - (デカルト)」であり、デカルト自身も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。
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