弓削道鏡とは? わかりやすく解説

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ゆげ‐の‐どうきょう〔‐ダウキヤウ〕【弓削道鏡】

読み方:ゆげのどうきょう

道鏡(どうきょう)


弓削道鏡

作者海音寺潮五郎

収載図書ちくま日本文学全集 048 海音寺潮五郎
出版社筑摩書房
刊行年月1993.1

収載図書悪人列伝 古代新装版
出版社文藝春秋
刊行年月2006.11
シリーズ名文春文庫


弓削道鏡

読み方:ユゲノドウキョウ(yugenodoukyou)

初演 享保16.秋(京・嵐座)


道鏡

(弓削道鏡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 08:55 UTC 版)

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日772年5月13日)以前[1])は、奈良時代僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある[2]。ただし、瀧浪貞子・京都女子大名誉教授のように悪人説を否定する者もいる[3]




「道鏡」の続きの解説一覧

弓削道鏡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 02:38 UTC 版)

皇位簒奪」の記事における「弓削道鏡」の解説

聖武天皇出家(神⇒仏)、孝謙太上天皇の再即位(仏⇒神)など神仏混交進み天皇の地位変質するなか、孝謙天皇称徳天皇)の看病禅師として宮中入り寵愛されるようになっていた道鏡は、天皇準ずる法王即位し家政機関設置されるなど事実上女帝との共同統治者となり仏教事業神祇司った。更に二人二頭体制によって皇太子経ず形式的に天皇即位すべく準備が行われた。間もなく女帝死去した実現しなかったとされる宇佐八幡宮神託事件)。道鏡神託否定するが、下野薬師寺造寺別当として左遷された。 もっとも、この事件は「道鏡皇位狙った事件ではなく女帝が「(皇族ではない)道鏡皇位譲ろうとした」事件とする見方もある。また、この事件記した『続日本紀』が、女帝死によって皇位継承権得た光仁桓武両天時代著作で、その正当性誇示目的執筆されたとも言われているため、留意する必要がある

※この「弓削道鏡」の解説は、「皇位簒奪」の解説の一部です。
「弓削道鏡」を含む「皇位簒奪」の記事については、「皇位簒奪」の概要を参照ください。

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