建設中断までの中工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:23 UTC 版)
「鍋立山トンネル」の記事における「建設中断までの中工区」の解説
中工区は西松建設が請け負い、31 km324 mから34 km711 mまでの3,387 mの区間を、34 km250 m付近に設けた儀明斜坑から掘削した。1973年(昭和48年)12月7日に着工し、実際の斜坑工事には1974年(昭和49年)8月に着手した。斜坑は全長293 m、14度の勾配で、断面積17.9平方メートルであった。77 mまで掘削を進めた時に、ダイナマイトで発破を行ったところ、溜まっていたメタンガスに引火してトンネル全体に火が走る爆燃という現象が発生した。発破時にトンネル内に作業員は残っていなかったため人的被害はなかったが、トンネル内に染み出してきた石油にも引火して爆燃後もチョロチョロと燃えているような状態で、危険性を恐れて多くの作業員が辞める原因となった。このため電気設備の防爆対策、ガス検定員の配置、検定爆薬の採用などの対策を必要とすることになった。 1975年度(昭和50年度)初めから本坑の工事に着手した。中工区はその1(33 km130 m - 34 km580 m、1,450 m)、その2(33 km049 m - 33 km130 m、81 m、34 km079 m - 34 km219 m、140 m、34 km651 m - 34km711 m、60 m、合計281 m)、その3(34 km580 m - 34 km651 m、71 m)、その4(31 km324 m - 31 km439 m、115 m)、その5(31 km439 m - 32 km404 m、965 m)、その6(32 km404 m - 33 km049 m、645 m)の6区間に分けて施工された。 斜坑の本坑への到達地点は、儀明信号場の設置のために斜坑交点の34 km250 mから六日町方に350 m、直江津方に330 mの延長680 mが複線となっている。まずこの複線区間を、斜坑から両側へ向かって掘削を開始した。この複線区間は鍋立山トンネルとしては比較的地質が良好な区間にあり、上部半断面先進逆巻工法(一部底設導坑先進工法)を採用して発破により工事を進めていった。一部地質の悪化した区間ではNATMも採用している。斜坑より六日町方ではメタンガスや石油などの浸出が見られた。複線区間でも一部膨圧により矢板が折れて仮巻コンクリートを併用する状況で、こうしたことから単線区間では円形断面として吹付コンクリートとロックボルトを併用しながらショートベンチ工法あるいはミニベンチ工法で掘削を行った。 複線区間より犀潟方(西側)では、1978年(昭和53年)11月から1979年(昭和54年)4月にかけての6か月間でその3区間の71 mを、1981年(昭和56年)1月から3月までの2か月間でその2区間の60 mを施工し、西工区との工区境に到達した。その後の西工区側からの掘削により、西工区と中工区の間が貫通している。その3区間ではNATMの試験施工や各種計測を実施している。 複線区間より六日町方(東側)では、1976年(昭和51年)3月に単線区間の工事に着手した。円形断面でショートベンチ工法で600 mほど施工した。これは、断面積の大きなトンネルでは一度に掘ると切羽が崩壊してしまうため、上下に分割して先に上半から施工する方式である。地山を緩ませないために発破をせず、機械による掘削を採用した。しかし東へ掘削を進めるにつれて次第に地圧が大きくなり、やがて上半と下半の閉合が1週間ほどかかるショートベンチ工法では対応しきれなくなってきた。このため途中でミニベンチ工法に切り替え、2 - 3日ほどで上半と下半の閉合を行うようになった。 1977年(昭和52年)3月12日、33 km325 m - 357 mの約32 mの区間で支保工が座屈し始める変状が発生した。地質的に不安定な状態で地山強度が低く、異常な膨圧が働いたためと推定され、2か月ほどかけて掘り直し、支保工を取り替える工事を行った。また同年7月21日には、33 km225 m25 - 240 m25の15 mほどの区間で上半支保工の押し出しが見られ始め、補強工事を行ったが次第に崩壊していくようになった。ガス濃度が増大したことから爆発防止のために切羽付近の電源を切って作業員を退避させることになり、さらに崩壊が広がっていった。応急対策としてエアモルタルやミルクセメントを注入して地山を安定させ、その後全断面掘削で少しずつ掘りながら鋼管支保工を設置し吹付コンクリートとロックボルトを施工し、覆工を厚くすることで復旧作業を進めて、約2か月半で復旧が完了した。 最終的に図中のEブロックは、平均月進41.5 mとなった。複線区間は比較的良好であったものの、単線区間に入るにつれて次第に悪化し、一度掘った区間の掘り直しなどが発生している。 ショートベンチ工法でも極度の押し出しにより掘削が困難となったため、一度掘って応力解放させた後の再掘削では押し出しが少なくなると見られたことから、導坑を掘って押し出し変形させてから本坑の大きさに切り広げる中央導坑先進いなし工法に切り替えて掘削を行った。さらに薬液注入による地盤改良も実施した。しかし掘削する以上に崩壊して押し戻されることの繰り返しで、206 m掘削したところまでで手詰まり状態となり、1982年(昭和57年)3月31日に工事凍結を迎えることになった。凍結時点で33 km049 mまで掘削が完了していた。図中Dブロックは平均月進4.6 mに留まった。 儀明斜坑からの工事が難航していたこともあり、1978年(昭和53年)8月28日に先に竣工していた東工区側から、1979年(昭和54年)3月31日に迎え掘り工事に着手した。実際の掘削はこの年の11月から始まり、馬蹄形単線1号型断面で上半先進ショートベンチ工法で掘進した。地山は比較的良好で順調に工事が進められたが、次第に膨張性を示すようになり、掘削のやり直しが発生するようになった。東口側からの工事は最終的に1981年(昭和56年)8月24日に凍結となった。凍結までに東工区側から施工した距離は32 km404 mまでの1,080 m(図中のBブロック)で、平均月進は60.0 mであった。 このようにして、1982年3月に工事凍結となった時点で東工区と西工区はほぼ完成しており、中工区の掘削済み区間と合わせて8,472 mが掘削されていたが、中工区の中間に645 mの未掘削区間(図中のCブロック)が残された状態となった。
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