島普請とは? わかりやすく解説

島普請

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:16 UTC 版)

広島城」の記事における「島普請」の解説

厳島神社大鳥居それぞれの主柱下に45~60cmのを約100打ち込まれている。 本川橋橋脚水面下根固め石組毛利氏時代の島普請によるものと言われている。 縮景園。 島普請とは、現在で言う地盤改良と堀の浚渫築堤工事のことを指す。 当地太田川下流域三角州低地にあり、低湿地帯砂地上に城を築くために「千本」と呼ばれる木杭砂地盤に打ち込んだ上に基礎築いた工法採用されたと伝えられてきた。ただ近年発掘ではその証拠が見つかっていないことから、実際に行われた否定的な意見唱えるものもいる。ちなみにこの千本厳島神社大鳥居基礎用いられている。 城址公園以外で当時の島普請で現存しているものとしては、旧太田川本川)の本川橋橋脚下の石組著名である。 北側外堀その他の外堀違って蛇行しているのは川をせき止め整備された ためである。毛利輝元による築城当時その川は「城北川」と呼ばれており、城の北側にあたる現在の白島地区築城以前は「箱島」と呼ばれる島(中州であった毛利氏次に入城した福島正則は、城北川洪水氾濫した場合城下深刻な被害与えると判断し治水対策含めて川を外堀として再整備し、東側は完全にせき止め西側は堀の取水口として樋門設けた、とされている。ちなみに福島氏次の広島藩主である浅野長晟入城翌年となる1620年元和6年)、城北川東側せき止め地点つまり旧城北川京橋川合流点付近に縮景園」を造園している。 浅野氏支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録多数残っている。その対策として、河川堤防高くしたり、川水の流れ抑制する石垣設置水害防御目的植林したり、川の浚渫行っている。その中で特異な政策として、当時中国山地たたら製鉄が盛んであったが、堀が埋まるのを防ぐためとして太田川流域での鉄穴流し一切許可しなかった。 戦前から同地建っている福屋八丁堀本店本館は、相生通り面して平行ではなく少しズレ状況建っている。これは外堀埋め立てた際に整備され当時相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後相生通り整備した際にズレるとなった。つまり福屋本館広島城外堀に対して平行に建っていることになる。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 被爆前。米軍撮影被爆後米軍撮影福屋本館手前相生通り八丁堀周辺横断する道路相生通りで、左から2番目の縦断する道路が旧白島通り。旧外堀南端相生通りで、東端が旧白島通り左側敷地にあたる。ちなみに八丁堀」の由来となった東の外堀はここである。なお現在の白島通り八丁堀交差点)はその一本右側道路戦前は狭幅員相生通り突き当たっており中央通り存在しなかった。これは上の安芸国広島城絵図』でも確認できる

※この「島普請」の解説は、「広島城」の解説の一部です。
「島普請」を含む「広島城」の記事については、「広島城」の概要を参照ください。

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