少年期〜青年期
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1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。 1916年(大正5年)、愛媛県立宇和島中学校に入学。「小学校5年から中学へ入った(当時、そういうことができたのか)」。(外山滋比古)。 1920年(大正9年)3月、宇和島中学校4年を修了。 同年4月4日、母(37歳)を肺結核で喪う。「わたしは母の死を思うと、いつでも、母の亡きがらを焼いた山に咲いていた山桜の白い花のことを思い出すのである」。〔中略〕「和口の山の山桜のことを、次のように詠んだのであった。〈雨に濡れ山桜白く咲きてゐし山にぞ焼きし母の亡きがら〉。これは歌集『石塊の道』に収めた」。〔下略〕 同年6月、旧制第一高等学校を受験する。「わたしが宇和島中学の四年生になったのは、大正8年の4月であったが、この年から中学の4年を修了した者は、高等学校を受けることができるようになった」。〔中略〕「一高の入学試験は六月の下旬にあったので、わたしは六月の中ごろ、宇和島の港を〔中略〕発った」。〔中略〕「次の一日、瀬戸内海の長浜、高浜、今治、多度津、高松などのあちこちの港に寄って、朝早く、三時半ごろであったが神戸の港に着いた。三ノ宮駅から乗った汽車は、17時間もかかって東京駅に着いた」。 同年9月、旧制第一高等学校入学。文科丙類(第一語学をフランス語とするクラス)で、フランス語を石川剛・内藤濯に学ぶ。「ふつうの学生よりも、2年早く16歳で、天下の最難関、一高の入試をパスしたというので一高の事務職員が教室をのぞきに行ったというエピソードもあった」。(外山滋比古) 1923年(大正12年)、一高卒業。東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学。助教授は辰野隆。一高同期の市原豊太、川口篤らと一緒になる。東京帝大新人会に入会。活動を通じて、中野重治、大間知篤三らとの終生にわたる親交が結ばれる。 1924年(大正13年)、中野重治らと同人誌「裸像」を刊行。 1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業。卒業論文は「ジャン・ジャック・ルウソオ」。
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少年期〜青年期(書籍2巻)
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騎士院へ入学したユーリは、キャロルやミャロをはじめとした学友との交流を深めながら、順調な学生生活を送っていた。 入学から5年が経ち、卒業に必要な単位の大半を取ったユーリは、いずれ必ず来るであろうシヤルタ王国の滅亡に目を向けていた。 そして、王国からの脱出のために必要な資金を得るべく、自身の持つ知識を利用した事業を興すことを決心する。
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