対仏抗戦期とは? わかりやすく解説

対仏抗戦期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 20:58 UTC 版)

プーミ・ウォンウィチット」の記事における「対仏抗戦期」の解説

1945年10月、「ラーオ・ペン・ラーオ統一戦線」に加入しルアンパバーン県知事顧問任命12月、再びフアパン県知事任命されベトミン協力して同地フランス軍攻撃した1946年2月、ムアン・フン郡長任命されフランス軍押され北上する政府機関と軍に供給する食糧備蓄任務に当たり、その後タイ北部逃れたタイにおいて3年間、ラーオ・イサラとして活動しタイ=ラオス及びタイ=ビルマ国境ゲリラ戦指導した1949年末、タイ国ラーオ・イサラ亡命政府解散に伴う恩赦申出拒絶し、プーミはスパーヌウォン殿下とともに抵抗継続した1950年4月29日インドシナ共産党入党同年8月、彼はネーオ・ラーオ・イサラ(自由ラオス戦線)の創立大会列席し、同戦線中央委員会常務委員選出され、また戦線ヴィエンチャン王国政府対抗して設立したラオス抗戦政府」の副首相内相指名された。抗戦政府国際的承認得られなかったが、プーミは1957年11月連合政府樹立に伴い抗戦政府総辞職するまで、両役職名目上保持していた。 1954年から1955年ポンサーリー県フアパン県再統合関し、プーミはパテート・ラーオ代表団率いてラオス王国政府との交渉当たった1955年3月、プーミはラオス人民党創設メンバー一人となり、党政治局員選出された。さらに1956年1月、ネーオ・ラーオ・イサラがラオス人民党指導下の左派大衆組織であるネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)に改組されると、その中央委員選出された。プーミは統合に関する交渉関与し続け1957年、それは「ヴィエンチャン協定」として知られる協定への署名として結実した。これは、第1次連合政府樹立へと道を開き、同政府でプーミは宗教芸術相を務めた(他のネーオ・ラーオ・ハクサート閣僚にスパーヌウォン計画・建設都市開発相がいた)。この時より、プーミは仏教僧侶強い関心を持つようになり、ラオス社会アメリカ化に対抗する宣伝手段として、そしてラオスの文化価値観宣伝媒体として、その可能性認めていた。 1958年5月国民議会補充選挙実施されると、プーミはルアンパバーン選挙区から立候補し国民議会議員当選した。同選挙左派躍進したことで、右派による圧力強まり同年7月22日プーマ内閣総辞職した8月18日右派のプイ・サナニコーンが首相に就任すると、ネーオ・ラーオ・ハクサート閣僚排除され連合崩壊した1959年7月28日、プーミは他のネーオ・ラーオ・ハクサート議員とともに反逆罪逮捕されいかなる裁判受けず投獄された。1960年5月、彼はスパーヌウォンと他のネーオ・ラーオ・ハクサート幹部さらには監視ともども脱獄し、シエンクワーンのネーオ・ラーオ・ハクサート支配地区逃れた

※この「対仏抗戦期」の解説は、「プーミ・ウォンウィチット」の解説の一部です。
「対仏抗戦期」を含む「プーミ・ウォンウィチット」の記事については、「プーミ・ウォンウィチット」の概要を参照ください。

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