対仏抗戦期
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「プーミ・ウォンウィチット」の記事における「対仏抗戦期」の解説
1945年10月、「ラーオ・ペン・ラーオ統一戦線」に加入し、ルアンパバーン県知事顧問に任命。12月、再びフアパン県知事に任命され、ベトミンと協力して同地のフランス軍を攻撃した。1946年2月、ムアン・フン郡長に任命され、フランス軍に押されて北上する政府機関と軍に供給する食糧備蓄の任務に当たり、その後タイ北部に逃れた。 タイにおいて3年間、ラーオ・イサラとして活動し、タイ=ラオス及びタイ=ビルマ国境でゲリラ戦を指導した。1949年末、タイ国内ラーオ・イサラ亡命政府の解散に伴う恩赦の申出を拒絶し、プーミはスパーヌウォン殿下とともに、抵抗を継続した。1950年4月29日、インドシナ共産党に入党。同年8月、彼はネーオ・ラーオ・イサラ(自由ラオス戦線)の創立大会に列席し、同戦線中央委員会常務委員に選出され、また戦線がヴィエンチャンの王国政府に対抗して設立した「ラオス抗戦政府」の副首相兼内相に指名された。抗戦政府は国際的承認を得られなかったが、プーミは1957年11月の連合政府の樹立に伴い抗戦政府が総辞職するまで、両役職を名目上保持していた。 1954年から1955年、ポンサーリー県とフアパン県の再統合に関し、プーミはパテート・ラーオ代表団を率いてラオス王国政府との交渉に当たった。1955年3月、プーミはラオス人民党の創設メンバーの一人となり、党政治局員に選出された。さらに1956年1月、ネーオ・ラーオ・イサラがラオス人民党指導下の左派大衆組織であるネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)に改組されると、その中央委員に選出された。プーミは統合に関する交渉に関与し続け、1957年、それは「ヴィエンチャン協定」として知られる諸協定への署名として結実した。これは、第1次連合政府の樹立へと道を開き、同政府でプーミは宗教・芸術相を務めた(他のネーオ・ラーオ・ハクサート閣僚に、スパーヌウォン計画・建設・都市開発相がいた)。この時より、プーミは仏教の僧侶に強い関心を持つようになり、ラオス社会のアメリカ化に対抗する宣伝手段として、そしてラオスの文化的価値観の宣伝媒体として、その可能性を認めていた。 1958年5月に国民議会補充選挙が実施されると、プーミはルアンパバーンの選挙区から立候補し、国民議会議員に当選した。同選挙で左派が躍進したことで、右派による圧力が強まり、同年7月22日、プーマ内閣は総辞職した。8月18日、右派のプイ・サナニコーンが首相に就任すると、ネーオ・ラーオ・ハクサート閣僚は排除され、連合は崩壊した。1959年7月28日、プーミは他のネーオ・ラーオ・ハクサート議員とともに反逆罪で逮捕され、いかなる裁判も受けずに投獄された。1960年5月、彼はスパーヌウォンと他のネーオ・ラーオ・ハクサート幹部、さらには監視兵ともども脱獄し、シエンクワーンのネーオ・ラーオ・ハクサート支配地区へ逃れた。
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