宿命論と業の否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/20 23:30 UTC 版)
「マッカリ・ゴーサーラ」の記事における「宿命論と業の否定」の解説
ゴーサーラは、万物はその細部にいたるまで宇宙を支配する原理であるニヤティ(宿命)によって定められているとして、人間の意志にもとづくあらゆる行為を否定し、徹底的な宿命論を説いた。その主張の本質は「人間の努力は無駄である」というものであったため、ブッダやマハーヴィーラによって厳しく批判された。 ゴーサーラによれば、いっさいの生きとし生けるもの(衆生)が輪廻の生活をつづけているのは「無因無縁」なのであり、またかれらが清らかになって、解脱するのも無因無縁である。言い換えれば、存在が堕落する原因や動機というべきものはなく、原因も動機もなしに堕落するし、存在の純粋さも同様であって、そこにも原因や動機はなく、これらなしに存在は純化されうる。すなわち、この思想は仏教思想の根本たる縁起の説とは真っ向から対立する。生きとし生けるものには、支配力もなく、意志の力もなく、ただ運命と状況と本性とに支配され、いずれかの状態において苦楽を享受する。つまりは、人が同じことをしても結果が異なることがあるのは、運命によるものなのであり、行為そのものには運命を変える力がなく、行為それ自体に善悪もなく、それに対する報いもまた存在しないのである。 意志にもとづく行為は成立しえないのであるから、輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯(六道)をたどって清められ、やがて解脱にいたる。「840万大劫」とよばれる計り知れない長大な年月のあいだ、賢者も愚者も流転し輪廻して苦の終わりに達するのであり、その期間、修行によって解脱に達することは不可能である。ゴーサーラは、あたかも糸玉を投げると解きほぐされ、糸がすっかり解け終わるまで転がりつづけるように、賢き者も愚かな者も定められた期間の間は生々流転をつづけ、最後は何の努力もなく、自然に解脱にいたると主張した。 こうしてゴーサーラは、当時、汎インド的に信じられていた「業」の思想を否定し、行為以外の何かが結果を決定しているとし、それは神ではないとした。神では結果の多様さ、特にその不幸な状態を説明できない。それはまた、自然の本性でもない。また、仏教などが説くカルマ(行為の結果)でもありえず、「宿命」(ニヤティ)と呼ぶほかないものであり、人は宿命との合一がなされたとき成功するのであり、宿命のみが人の幸福や不幸のありようを説明するのだと説いた。
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