実際の建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:25 UTC 版)
フルカン社設計案を元案に1912年7月23日にハンブルク造船所で起工した。1914年8月に第一次世界大戦が勃発した。同年11月11日に進水する。艦名をティルピッツ (SMS Tirpitz) と改名した。[要出典]問題は、主砲塔一式がイギリス側で差し押さえられて入手できなかった事だった。ドイツ式の主砲を搭載するためには根本的設計変更と改造が必要になる。艤装は1914年12月31日に中断され、船体は兵舎として活用された。 後日、ユトランド沖海戦でイギリス海軍の大艦隊 (Grand Fleet) とドイツ帝国海軍の大洋艦隊 (Hochseeflotte) が交戦した際、海戦の終盤で偵察部隊(戦闘巡洋艦隊)を掩護していたドイッチュラント級戦艦(前弩級戦艦)ポンメルン (SMS Pommern) が撃沈された(ドイツ艦隊、戦闘序列)。大海戦に参加したイギリス海軍将兵は、沈没したポンメルンを「サラミスではないか」と噂したという。 なおベスレヘム・スチールが製造した主砲塔4基(14インチ砲8門)はイギリスが買い取り、イギリス海軍がアバクロンビー級モニターの主砲として流用した。同級のラグラン (HMS Raglan) は地中海に配備され、オスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) と軽巡洋艦ミディッリ (Midilli) と交戦し、撃沈された(イムブロス島沖海戦(英語版、トルコ語版))。トルコ軍艦2隻の前身は、イギリスに接収された戦艦2隻(レシャディエ/エリン、スルタン1世/エジンコート)の代艦として、オスマン帝国がドイツ帝国より購入した巡洋戦艦ゲーベン (Goeben) と小型巡洋艦ブレスラウ (SMS Breslau) であった。 第一次世界大戦後、フルカン社は建造代金£45,000の支払いを要求するも、ギリシャ政府が不完全なサラミスの購入を拒否。結局、ギリシャ政府はフルカン社に£30,000を支払って和解した。一方、隣国ではトルコ革命によりオスマン帝国が打倒され、連合国はローザンヌ条約によってアンカラ政府を承認し、トルコ共和国が樹立した。ヤウズは1923年にトルコ共和国に返還され、同海軍は1926年から28年にかけて修理と整備を開始、ヤウズを復帰させた。対抗策としてギリシャは本艦を竣工させることも検討した。しかし完成には到らず、1932年にブレーメンにて船体は解体処分された。
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