太陽銀行との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 13:32 UTC 版)
神戸銀行設立に際し、中核となった神戸岡崎銀行の社長であった岡崎忠雄は会長に就任、このとき初代頭取には八馬財閥の三代目八馬兼介(八馬家の系列にあった西宮銀行の頭取)が就任した。11年後の1947年(昭和22年)、岡崎忠雄の長女の婿養子となった岡崎忠が2代目頭取に就任し以後20年間頭取を務めた。1967年(昭和42年)、山陽特殊製鋼倒産事件でゆれ動くなか、岡崎忠は神戸出身の元大蔵次官石野信一に後身を懇願、3代目頭取に就任した。 石野の大蔵省時代の先輩でやはり大蔵次官を経験していた河野一之は、関東地方を基盤に発展し、相互銀行ながら既に都市銀行並みの規模に肥大化していた日本相互銀行の社長に就任し、1968年(昭和43年)に都市銀行・太陽銀行に転換した。そしてかつて先輩後輩の仲であった河野と石野との“トップ会談”により、神戸銀行は太陽銀行と合併することになった。 当時、金融再編の流れが起こりつつあり、日本相銀の普通銀行転換のほか、三井銀行と東都銀行の合併(1968年)、第一銀行と三菱銀行の合併発表(1969年、のちに破談)、それに続く第一銀行と日本勧業銀行の異業種合併に神戸銀行が加わる案もあった。この異業種合併では結局、神戸銀行が離脱し1971年(昭和46年)に第一勧業銀行(現・みずほ銀行)が発足した。これらの流れのなかで都市銀行下位になっていた神戸銀行と太陽銀行が、頭取の旧知の仲も後押しとなって1973年(昭和48年)10月1日に太陽神戸銀行となった。 太陽神戸銀行は、太陽銀のリテールや関東地方の基盤ならびに、神戸銀の大企業や関西さらには国際取引の基盤を生かしつつ営業を展開する方途が執られたが、実質的には首都圏強化を狙った合併であり、太陽神戸銀の登記上の本店は神戸に置かれたものの、東京、神戸の2本部制を敷き、経営企画などの本部中枢部門は東京本部に設置された。また頭取人事については1990年に三井銀行と合併するまで、内部昇格は行われず大蔵省出身者が歴代就任していた。
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