大官大寺跡の昭和の発掘調査
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「大安寺」の記事における「大官大寺跡の昭和の発掘調査」の解説
1973年(昭和48年)から1982年(昭和57年)にかけて奈良国立文化財研究所の行った発掘調査によって伽藍配置が明らかになった。伽藍配置は中門、金堂、講堂が南北に一直線に並び、中門左右から出た回廊が金堂に達し、回廊で囲まれた方形の区画の東側(金堂の右手前)に塔が位置する、一塔一金堂式の伽藍配置であったことが確認された。金堂、塔、中門、回廊、講堂のほか、寺域を区切る掘立柱塀の存在も伽藍の東方・西方・北方で確認されたが、廻廊内の西側(金堂の左手前)には建物跡が検出されていない。東西の回廊はさらに北方に続き、講堂の背後で閉じていた。つまり、講堂の周囲は回廊で囲まれていた。塔は初層1辺に柱が6本ならび柱間が5つという方5間の大規模なもので、伝承のとおり九重塔であったと推定される。金堂の平面規模は桁行9間(45メートル)、梁間4間(21メートル)、塔は方5間(15メートル)であった。飛鳥時代の他の大寺の金堂の平面が15×11メートル程度、塔が方6.5メートル程度であるのに比べると格段に大規模な伽藍である。寺域は藤原京の条坊に合わせて計画され、東が東四坊大路、西が東三坊大路、南が十条大路、北が九条条間路で囲まれた地区に位置していた。 発掘された寺域跡からは焼け土や焼けた瓦が検出された。屋根の垂木が焼け落ちて地面に突き刺さった痕跡を残している箇所もあり、中門、回廊などは、建設工事の足場跡の穴にも焼け跡がみられたことから、これらの建物は建設途上で火災に遭ったとみられる。以上のことから、この寺は、金堂などの主要建物がようやく完成し、中門、回廊などは工事中の段階で火災に遭ったことが判明した。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があり、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)に火災があったとし、すなわち遷都の翌年の平城京への移転前に火災に遭ったことになる。 さらに出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍の建立は天武朝まではさかのぼらず、持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された。以上のことから、前述の天武朝に建立された高市大寺とは年代が合わず、高市大寺と大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。 遺構は現在も奈良県明日香村小山にあり、現在は国の史跡に指定されている。寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡が位置している。
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