大官大寺跡の昭和の発掘調査とは? わかりやすく解説

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大官大寺跡の昭和の発掘調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)

大安寺」の記事における「大官大寺跡の昭和の発掘調査」の解説

1973年昭和48年)から1982年昭和57年)にかけて奈良国立文化財研究所行った発掘調査によって伽藍配置明らかになった。伽藍配置中門金堂講堂南北一直線並び中門左右から出た回廊金堂達し回廊囲まれ方形区画東側金堂右手前)に塔が位置する、一塔一金堂式の伽藍配置であったことが確認された。金堂、塔、中門回廊講堂のほか、寺域区切る掘立柱塀の存在伽藍東方西方北方確認されたが、廻廊内の西側金堂左手前)には建物跡検出されていない東西回廊はさらに北方続き講堂背後閉じていた。つまり、講堂周囲回廊囲まれていた。塔は初層1辺にが6本ならび柱間5つという方5間の大規模なもので、伝承のとおり九重塔であった推定される金堂平面規模桁行9間(45メートル)、梁間4間(21メートル)、塔は方5間(15メートルであった飛鳥時代の他の大寺金堂平面15×11メートル程度、塔が方6.5メートル程度であるのに比べる格段に大規模な伽藍である。寺域藤原京条坊合わせて計画され、東が東四坊大路、西が東三大路、南が十条大路、北が九条条間路で囲まれ地区位置していた。 発掘され寺域跡からは焼け土焼けた瓦が検出された。屋根垂木焼け落ち地面突き刺さった痕跡残している箇所もあり、中門回廊などは、建設工事足場跡の穴にも焼け跡がみられたことから、これらの建物建設途上火災遭ったとみられる。以上のことから、この寺は、金堂などの主要建物がようやく完成し中門回廊などは工事中段階火災遭ったことが判明した平城京への移転年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』霊亀2年5月条に「元興寺左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があり、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記によれば飛鳥大官大寺和銅4年711年)に火災があったとし、すなわち遷都翌年平城京への移転前に火災遭ったことになる。 さらに出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍建立天武朝まではさかのぼらず持統天皇末年から文武天皇初年頃(7世紀最末期であったことが推定された。以上のことから、前述天武朝建立され高市大寺とは年代合わず高市大寺大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。 遺構は現在も奈良県明日香村小山にあり、現在は国の史跡指定されている。寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡位置している。

※この「大官大寺跡の昭和の発掘調査」の解説は、「大安寺」の解説の一部です。
「大官大寺跡の昭和の発掘調査」を含む「大安寺」の記事については、「大安寺」の概要を参照ください。

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