外国人選手の招聘
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当時の日本プロレス界はプロレスの本場であるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスの時代だった。国際プロレスでは設立当初、マツダをエース兼ブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダは1967年の2シリーズの終了後、TBSの放送開始を待たず、同年秋までに離脱してしまう。そこで国際プロレスは日系レスラーの東郷にブッキングを依頼した。東郷はかつて日本プロレスのブッカーを務めていたが、力道山の死後は絶縁状態となっていた。東郷はカナダ(トロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWAを設立。1968年1月、初代TWWA王者として認定されたルー・テーズを初めとする大物レスラーを招聘してシリーズを開催、TBSの放送も開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述のトラブルから離別し、国際プロレスは北米ルートを完全に遮断されてしまう。 そのため、吉原は八田一朗の力を借り、それまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパのマット界との提携に乗り出し、ジョージ・レリスコウ主宰のジョイント・プロモーションズとのコネクションを形成していく。これによりビル・ロビンソン、ビリー・ジョイス、トニー・チャールズ、アルバート・ウォール、パット・ローチ、ワイルド・アンガス、アル・ヘイズ、ダニー・リンチなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツのホースト・ホフマン、フランスのモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)、スイスのジャック・デ・ラサルテス、そして欧州を主戦場としていたカナダ出身のジョージ・ゴーディエンコなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。なお、このヨーロッパのコネクションと吉原が協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。 欧州ルートを確立しつつ、ジョイント・プロモーションズとのつながりでカルガリーのスタンピード・レスリングともコネクションを築き、このルートでスタン・スタージャックやスタン・ザ・ムースなどが来日。また、フリーランス選手の清美川梅之のブッキングでダニー・リトルベアやオックス・ベーカー、シャチ横内のブッキングでバディ・コルトやゴージャス・ジョージ・ジュニアらを招聘するなど、アメリカのルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAのコネクションは日本プロレスが握っていたため、TBSのバックアップのもと、NWAに次ぐアメリカのメジャー団体だったAWAに接近する。1970年2月にAWAの実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者のバーン・ガニアが来日して国際の主力勢を相手に防衛戦を行い、「AWA極東支部」の看板を掲げ本格提携がスタートした。以降はガニアやエドワード・カーペンティア、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションをはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラーを数多く招聘、日本プロレスと遜色ない顔ぶれが揃うようになった。また、この提携はアンドレ・ザ・ジャイアントのアメリカ進出の契機ともなった。一方で、1972年に旗揚げした新日本プロレスが、カール・ゴッチをブッカーにヨーロッパの選手を招聘するようになったこともあり、欧州マットとの繋がりは薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者のニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを同時招聘しての豪華な興行も開催された。 しかし、AWAが要求する高額な提携料は団体の運営を圧迫させることとなったため、1975年2月をもってAWAとの提携を解消し、3月よりカナダのカルガリーに大剛鉄之助を支部長とする北米支部を設置して新たな招聘窓口とした。のちの関係者の回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、吉原が大剛を選んだとされている。カナダのルートでは「ギャラは安いが中身が凄い外人選手」を発掘し、キラー・トーア・カマタやジプシー・ジョーなど、当時のエースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となったが、AWA時代と比べ外国人選手のネームバリューはスケールダウンすることとなった。大剛ルート以外では、新日本プロレスや全日本プロレスと接点の無かったアメリカのガルフ・コースト地区(リップ・タイラーのルートによるリー・フィールズ主宰のGCCW)、テネシー地区(ジョーのルートによるジェリー・ジャレット主宰のCWA)、ルイジアナ地区(グリズリー・スミスのルートによるビル・ワット主宰のMSWA)、最末期にはマッハ隼人の仲介でメキシコのEMLLからも選手を招聘。1979年から1980年にかけてはAWAルートも一時的に復活、ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦を行い、ガニアの再来日も実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。 古くからコネクションを持っていたカルガリーのスタンピード・レスリングからは、大剛ルートではカマタをはじめビッグ・ジョン・クインやキラー・ブルックスなどエース級の選手が来日し、1970年代後半の外国人招聘ルートの主軸となった。しかし、1979年7月のダイナマイト・キッド初来日を機に、当時国際プロレスと交流していた新日本プロレスは、大剛と反目していたミスター・ヒトを通じてスチュ・ハートに急接近。ハートは最終的に新日本プロレスを日本での提携先として選択し、国際プロレスはカルガリー・ルートを遮断されてしまった。 前述の通り日本プロレスの全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし、後にNWAやWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体の新日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍する選手の中には、初来日のマットが国際プロレスだったケースは数多い。欧州ルートのロビンソンやアンドレのほかにも、AWAルートではダスティ・ローデス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・フォン・ラシク、ケン・パテラ、そして当時無名の存在だったリック・フレアー、カナダやアメリカ中南部のルートからはワイルド・サモアンズ、リック・マーテル、デビッド・シュルツ、ジェイク・ロバーツ、ビッグ・ダディ・リッターなどがいる。東京12チャンネルによるレギュラー中継終了直後の1981年4月に開幕した『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』にも、当時「まだ見ぬ強豪」として初来日が待望されていたポール・エラリングとスティーブ・オルソノスキーを招聘しており、未来日の新鋭レスラーのブッキングには最後まで意欲的であったが、レギュラー中継終了前後には4人を呼ぶのがやっとの状態でもあった。
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