外国人選手の招聘とは? わかりやすく解説

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外国人選手の招聘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)

国際プロレス」の記事における「外国人選手の招聘」の解説

当時日本プロレス界はプロレス本場であるアメリカから大物外国人招聘することがステータス時代だった。国際プロレスでは設立当初マツダエースブッカーとしてアメリカからのレスラー招聘責任者とした。しかしマツダ1967年2シリーズ終了後TBS放送開始待たず同年秋までに離脱してしまう。そこで国際プロレス日系レスラー東郷ブッキング依頼した東郷はかつて日本プロレスブッカー務めていたが、力道山死後絶縁状態となっていた。東郷カナダトロント地区)のプロモーターであるフランク・タニーを代表としてTWWA設立1968年1月初代TWWA王者として認定されルー・テーズ初めとする大物レスラー招聘してシリーズ開催TBS放送開始された。しかしその東郷とも同年2月には前述トラブルから離別し国際プロレス北米ルートを完全に遮断されてしまう。 そのため、吉原八田一朗の力を借りそれまで日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパマット界との提携乗り出し、ジョージ・レリスコウ主宰のジョイント・プロモーションズとのコネクション形成していく。これによりビル・ロビンソンビリー・ジョイストニー・チャールズアルバート・ウォールパット・ローチワイルド・アンガス、アル・ヘイズ、ダニー・リンチなどのイギリス勢をはじめ、西ドイツホースト・ホフマンフランスモンスター・ロシモフアンドレ・ザ・ジャイアント)、スイスジャック・デ・ラサルテス、そして欧州主戦場としていたカナダ出身ジョージ・ゴーディエンコなど多く強豪レスラーが、国際プロレス初来日果たした。なお、このヨーロッパコネクション吉原協力して立ち上げたのが、団体崩壊までのタイトル統括組織となったIWAである。 欧州ルート確立しつつ、ジョイント・プロモーションズとのつながりカルガリースタンピード・レスリングともコネクション築き、このルートスタン・スタージャックスタン・ザ・ムースなどが来日また、フリーランス選手清美川梅之ブッキングダニー・リトルベアオックス・ベーカーシャチ横内ブッキングバディ・コルトやゴージャス・ジョージ・ジュニアらを招聘するなど、アメリカルートも少しずつ繋がり始めたが、NWAコネクション日本プロレス握っていたため、TBSバックアップのもと、NWAに次ぐアメリカメジャー団体だったAWA接近する1970年2月AWA実質上のオーナーであり、現役世界ヘビー級王者バーン・ガニア来日して国際主力勢を相手防衛戦行い、「AWA極東支部」の看板掲げ本格提携スタートした以降はガニアやエドワード・カーペンティアマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションはじめとする世界タッグ王者チームなど、AWA系の大物レスラー数多く招聘日本プロレス遜色ない顔ぶれが揃うようになったまた、この提携アンドレ・ザ・ジャイアントアメリカ進出契機ともなった一方で1972年旗揚げした新日本プロレスが、カール・ゴッチブッカーヨーロッパ選手招聘するようになったこともあり、欧州マットとの繋がり薄れていった。1974年11月にはシングル王者のガニアと、タッグ王者ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス同時招聘しての豪華な興行開催された。 しかし、AWA要求する高額な提携料は団体運営圧迫させることとなったため、1975年2月をもってAWAとの提携解消し3月よりカナダカルガリー大剛鉄之助支部長とする北米支部設置して新たな招聘窓口とした。のちの関係者回想によると、ガニアから「自分たち(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ吉原大剛選んだとされている。カナダルートでは「ギャラは安いが中身が凄い外人選手」を発掘しキラー・トーア・カマタジプシー・ジョーなど、当時エースだったラッシャー木村と手の合う流血派のラフファイターが中心となったが、AWA時代比べ外国人選手ネームバリュースケールダウンすることとなった大剛ルート以外では、新日本プロレス全日本プロレス接点無かったアメリカのガルフ・コースト地区リップ・タイラールートによるリー・フィールズ主宰のGCCW)、テネシー地区ジョールートによるジェリー・ジャレット主宰CWA)、ルイジアナ地区グリズリー・スミスルートによるビル・ワット主宰MSWA)、最末期にはマッハ隼人仲介メキシコEMLLからも選手招聘1979年から1980年にかけてはAWAルート一時的に復活ヘビー級王者となっていたボックウインクルが来日して防衛戦行い、ガニアの再来日実現したが、本格的な提携再開には至らなかった。 古くからコネクション持っていたカルガリースタンピード・レスリングからは、大剛ルートではカマタをはじめビッグ・ジョン・クインキラー・ブルックスなどエース級の選手来日し1970年代後半外国人招聘ルート主軸となった。しかし、1979年7月ダイナマイト・キッド初来日機に当時国プロレス交流していた新日本プロレスは、大剛反目していたミスター・ヒト通じてスチュ・ハートに急接近ハート最終的に新日本プロレス日本での提携先として選択し国際プロレスはカルガリー・ルートを遮断されてしまった。 前述通り日本プロレス全盛時は、大物外国人をなかなか招聘できずに苦戦していた。しかし、後にNWAWWFなどアメリカのメジャーテリトリーや他団体新日本プロレスおよび全日本プロレス活躍する選手中には初来日マット国際プロレスだったケース数多い欧州ルートロビンソンアンドレのほかにも、AWAルートではダスティ・ローデスブラックジャック・マリガンワフー・マクダニエルスーパースター・ビリー・グラハムバロン・フォン・ラシクケン・パテラ、そして当時無名存在だったリック・フレアーカナダアメリカ中南部ルートからはワイルド・サモアンズリック・マーテルデビッド・シュルツジェイク・ロバーツビッグ・ダディ・リッターなどがいる。東京12チャンネルによるレギュラー中継終了直後1981年4月開幕した『'81ビッグ・チャレンジ・シリーズ』にも、当時「まだ見ぬ強豪」として初来日待望されていたポール・エラリングスティーブ・オルソノスキー招聘しており、未来日の新鋭レスラーブッキングには最後まで意欲的であったが、レギュラー中継終了前後には4人を呼ぶのがやっとの状態でもあった。

※この「外国人選手の招聘」の解説は、「国際プロレス」の解説の一部です。
「外国人選手の招聘」を含む「国際プロレス」の記事については、「国際プロレス」の概要を参照ください。

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