国際プロレスへの回帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:40 UTC 版)
「国際プロレス」の記事における「国際プロレスへの回帰」の解説
こうした一連の緊急事態を受け、イメージの悪化を懸念した局側の申し入れにより団体名は再び『国際プロレス』に戻り、団体は新路線を模索することとなる。東郷との決別でアメリカからの外国人招聘ルートを失った吉原は、当時早稲田スポーツ部OB会長の座にあり、レスリング部OBの吉原にとっても柔道部OBの森にとっても近しい存在だった日本レスリング協会会長の八田一朗の紹介を受けて、新たにヨーロッパからの外国人招聘ルートを開拓した。 しかし、東郷による外国人選手ボイコット事件の余波は『TWWAワールド・タッグ・シリーズ』の次期シリーズである『日・欧 決戦シリーズ』にも影響し、同シリーズは全9戦という日程となった。また、東郷とのトラブルを受けての急遽の招聘だったこともあり、ヨーロッパからの外国人選手は就労ビザではなく観光ビザでの来日となったため、開幕戦である2月28日の栃木県足利市月丘高校体育館大会(メインイベントは豊登&杉山VSトニー・チャールズ&リー・シャロンのTWWA世界タッグ王座戦)は入場無料のチャリティー興行へ急遽変更されたが、生中継は予定通り行われた(翌日に香港に飛んでビザを切り替え、第2戦からは通常の興行開催が可能となった)。同シリーズは開催までの期間がほとんどなかったため宣伝はまったく行われず、パンフレットを販売しない会場もあった。 日本プロレスにおける国際プロレスに対する妨害工作はその後も続き、後楽園ホールは、日本プロレスが日本テレビと読売新聞グループを使ったコネクションによる工作で、NETの『NETワールドプロレスリング』開始まで使用できなかったほか(都内の中規模会場での興行は区立の体育館の使用を強いられた)、外国人選手の招聘でも妨害をかけ(後述)、さらに日本プロレスは1968年8月3日の国際プロレス横浜スカイホール大会の裏に横浜市南区で興行を急遽ぶつけて7000人の観衆を集めている(国際プロレスは実数1000人未満)。
※この「国際プロレスへの回帰」の解説は、「国際プロレス」の解説の一部です。
「国際プロレスへの回帰」を含む「国際プロレス」の記事については、「国際プロレス」の概要を参照ください。
- 国際プロレスへの回帰のページへのリンク