国際プロレス旗揚げ - レギュラー放送開始まで
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「TWWAプロレス中継」の記事における「国際プロレス旗揚げ - レギュラー放送開始まで」の解説
TBSは国際プロレス社長の吉原にアントニオ猪木入団を要請し(その後猪木は1967年4月に日本プロレスに復帰)、吉原も旗揚げ直後の1966年11月からTBSとフジテレビにテレビ中継開始を打診し、その結果TBSはフジテレビとのデットヒートの末、国際プロレスの試合放映権を獲得した。1967年9月11日にTBS本社で放映契約に関する契約の調印式が行われ、同年11月7日にTBSによる全国中継開始の記者会見が行われ「来年1月から毎週水曜日の19:00 - 19:55枠で中継開始」「グレート草津とサンダー杉山をエースとし、TBSの力でスターを秒単位で作ってみせる」と会見したと同時に、ブッカーとしてグレート東郷を迎え入れた。同年12月22日にはプロデューサーを務める森忠大が再度記者会見し、「放送する番組はTBSプロレスとする」「今回の開始は今道潤三社長の決断であり、系列局では『日本プロレス中継』を編成しざるを得ない状況の地域があり、これを阻止すべく自局でプロレス中継を開始する必要性に迫られた」などと会見した。放送時間を19時台に設定した理由は、「子供がチャンネル主導権を握っている時間帯に設定することで、プロレス中継を家族の時間とする試み」であった。森が作成した企画書には、参加予定の外国人選手として、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーなどが名を連ねていた。 これに先駆けて定期放送開始前のパイロット版的なものとして、TBSでは1967年7月30日の『週間スポーツ』枠に於いて、「パイオニア・サマー・シリーズ」第2戦をダイジェストで放送した他、同年8月4日の『スポーツ・アワー』枠においても、「ヒロ・マツダの素顔」と題してマツダを紹介した。同年8月11日に大分県立荷揚町体育館で行われた『パイオニア・サマー・シリーズ』大分大会のメインイベント(マツダ&サム・スティムボートvsロジャー・カービー&ビル・ドロモ)の模様が、当日の大会の主催者でもあった大分放送のみで、翌1967年8月12日の23:05 - 23:50に録画放映されている(モノクロ放送、解説は森忠大)。 そして1967年12月中旬から、各紙に番組の広告が掲載されるようになった。キャッチコピーは時期によって異なり、「プロレス中継に新風を吹き込むTBSのプロレス」「TBSのプロレス! 水曜のプロレス! よる7時のプロレス!」。
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