国際プロレス以降とは? わかりやすく解説

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国際プロレス以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:17 UTC 版)

ジェリー・モロー」の記事における「国際プロレス以降」の解説

1981年8月国際プロレス崩壊後古巣カルガリー主戦場活動しデビッド・シュルツバッドニュース・アレンマイク・ショーロン・スターなどのヒール勢と対戦1982年プエルトリコWWC参戦国際プロレス常連外国人だったキューバン・アサシン組み11月20日にピエール・マーテル&ジノ・ダラセーラ(ボブ・ダラセーラ実弟)からWWC世界タッグ王座奪取している。 1983年7月ジェリー・モロー名義全日本プロレス初登場7月19日大阪府立体育館にて、原&マイティ井上保持していたアジアタッグ王座ジプシー・ジョー組んで挑戦国際プロレス出身者同士によるタイトルマッチが行われた。1984年8月からは新日本プロレス参戦し同年11月第5回MSGタッグ・リーグ戦では、同じくフランス語母語とするアンドレ・ザ・ジャイアントパートナー起用された(国際プロレス時代からの間柄である両者の関係実際に良好だったが、チームバランスを取るために、モローヘマをしてはアンドレ咎められる「ちょっと頼りないパートナー」を演じていたという)。1987年1月来日ではレフェリー務め2月5日には越中詩郎高田伸彦IWGPジュニアヘビー級選手権試合を裁いた。 その間主戦場カルガリーではクリス・ベノワオーエン・ハートジョニー・スミスブライアン・ピルマン日本から海外武者修行来ていた馳浩山田恵一などの若手選手育成にも助力1980年代末からはキューバン・アサシン本格的にタッグ組んで傭兵ギミックヒール転向し、キューバン・コマンドス(The Cuban Commandos)なるフレンチ&スパニッシュタッグチーム結成WWF離脱したダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスブリティッシュ・ブルドッグスとも抗争している。1989年にはロス・メルセナリオス(Los Mercenarios)のチーム名WWC再登場し、10月7日バヤモンにてカリビアン・タッグ王座獲得したキャリア晩年1990年代は、SWSPWCIWA格闘志塾などに来日PWCでは当初ジェリー・モローリングネーム参戦予定であったが、本人希望で「稲妻ジロー」として出場鶴見主宰するIWA格闘志塾には、国際プロレス時代同様に稲妻二郎」の名義参戦したカナダでは1992年から1998年初頭にかけて、ボブ・ブラウンらが運営していたマニトバ州ウィニペグのWFWA(後にIWA改称)にて活動クリス・ジェリコランス・ストームドン・キャリスクリスチャン・ケイジ当時若手選手対戦した1983年カナダ国籍取得し引退後カルガリー居住している。

※この「国際プロレス以降」の解説は、「ジェリー・モロー」の解説の一部です。
「国際プロレス以降」を含む「ジェリー・モロー」の記事については、「ジェリー・モロー」の概要を参照ください。

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