名護屋城跡並陣跡とは? わかりやすく解説

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名護屋城跡並陣跡

名称: 名護屋城跡並陣跡
ふりがな なごやじょうあとならびにじんあと
種別 特別史跡
種別2:
都道府県 佐賀県
市区町村 唐津市鎮西町呼子町東松浦郡玄海町
管理団体 唐津市
指定年月日 1926.11.04(大正15.11.04)
指定基準 史2
特別指定年月日 昭和30.08.22
追加指定年月日
解説文: 文録慶長両度ノ役ニ我出征軍ノ本営タリシ處ニシテ天正十九年豊秀吉九州諸侯ニ命ジテ築カシメタルモノナリ百数十箇所ノ陣阯其ノ周囲ニアリ 後廃墟ニ属シ陣阯亦破壊セラレタルモノ多シト雖モ濠渠石疊磴道等尚遺存シ其ノ雄大ナル規模見ルヘキモノアリ今回指定ノ陣阯ハ調査ノ終ハレルモノノ中其ノ主要ナルモノニ係ル
文祿慶長の役に、豊臣秀吉名護屋本營を置き、從軍大名それぞれその周辺陣屋設けた名護屋城は海に挺出した、ゆるやかな起伏に豊む半島の最高所営まれ本丸は最も高く壹岐眼前に、対馬をその彼方に望み視野極めて広く選地すぐれたことを思わせるに十分である。
本丸の北より北西にかけて(又は北面に)低く遊撃丸、2の丸、彈正丸、西の丸の諸郭を連ね配し、これにつづいて西面に帶郭(馬場)を沿はせる。本丸南西隅の大手虎口降れは3の丸に出で、その南東隅の虎口出で千人隅(枡形とも)の郭の前を通り、3の丸下を西行すれば大手口達する。
大手は城の南西隅に位し、また3の丸の東に断崖を背に負うて低く山里丸がある。これらの諸郭と虎口何れも堅固な堂々たる石垣を以て堅められ本営としてまことに壮観である。
いま各所改変のあともあり、また石垣崩壞したところも少なくないが、総じてよく旧状をとどめている。
安土城から慶長年間城郭に至る間の築城沿革をたどる上に貴重な資料であり、その歴史上の位置相まって史跡として価値極めて高い。
陣屋それぞれ高地営まれ、その総数は■しいが、その人物、遺構等の点から10ケ所指定されている。この内にあって羽柴秀俊堀秀治遺構遺存状況が特にすぐれている羽柴秀俊陣屋丘陵上に営まれ主要部大小二郭連ね枡形がよく遺っている。背部つづいてまた二郭あったと認められ虎口のあとなどが見られる塁壁石垣を以て固められている。堀秀治陣屋丘陵上に営まれている。要所石垣を以て固め正面背面虎口の構があり、内に郭がある。
前田利家の陣もまた見るべきものがある。これらの陣屋はこの種の遺例乏しい現在、その好例として極めて貴重である。
S44-12-027名護屋城跡並陣跡.txt: 今回発見された陣跡は、名護屋湾の奥、呼子側の海岸台地上にあり、東西70メートル南北50メートルにわたる方形土塁がよく残存し、さらにその西側に2か所の小陣跡が付設され、門跡思われる石垣残っている。
 陣営図などによれば、この個所黒田甲斐守長政の陣と思われ、すでに指定大正15年11月4日史跡指定昭和10年8月22日特別史跡指定)された10か所の陣跡のうち、大和中納言堀久太郎陣跡とならぶ良好な遺構であり、呼子側としては、はじめての陣場跡である。よって、この陣跡をふくむ台地上の一画追加指定する
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