名塩鳥の子紙の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/12 13:57 UTC 版)
摂津の名塩(兵庫県西宮市塩瀬町名塩(なじお))は、鳥の子紙の名産地として知られている。 名塩鳥の子の名の初出は『毛吹草』寛永15年(1638年)篇で「名塩鳥子 有馬引物 湯ノ山引共云、宜シ」とあり、諸国より入湯者の参集する有馬温泉の土産として、名塩の半切り・鳥の子色紙が売られていたことが記されている。『摂州名所記』承応4年(1655年)篇には「名塩、鳥の子紙、昔よりすき出す所也、越前にもおとらさる程にすく、或いは色々 紙有り」とあり、同書が書かれた承応年間(1652年 - 1654年)より以前の17世紀前半には、名塩で紙業が発展していたことが分かる。『絵入有馬名所記』寛文12年(1672年)刊には「名塩紙 鳥の子を始めて五つの色紙・雲紙までもすき出す事、越前につきてハ世にかくれなき名塩なるべし」とある。 名塩において、鳥の子をはじめ五つの色の色紙、雲紙までも漉かれていることは、越前についで世に知られている。その紙の起こりは越前であろうと記している。名塩の紙の始まりを越前と記しているのは、名塩紙に関する文献としては同書が初出である。名塩鳥の子紙の起源について、丹波を経てここに布教した蓮如上人が、文明7年(1475年)に教行寺を開いてその子の蓮芸に守らせたが、そのころ紙漉きの技術を伝えたという説がある。渡辺久雄著『忘れられた日本史』の「紙祖の発掘」の章で、「紙漉東山弥右衛門(やえもん)」は越前岩本村(福井県今立町岩本)の成願寺の過去帳から、慶長3年(1598年)岩本村から出奔した弥右衛門(やえもん)ではないかと推測している。越前鳥の子の名産地の岩本村で、紙漉きの技術者が何らかの事情で村を出て、紙漉きの名塩に辿り着き、泥間似合紙を工夫開発したものと言われている。この他にも諸説あるが、いずれも越前で紙漉きの技術を習得して、名塩で紙漉きをはじめたという説である。 地元では名塩紙業の始祖として東山弥右衛門が定着しており、安政2年(1855年)に、漉屋仲間がその徳を讃えて建てた紙職元祖碑がある。紙職元祖碑の裏面の碑文の要約は、「名塩紙業が起こってより長い年月が経っている。この製紙を伝えた祖は、弥右衛門である。しかしながら、それがいつ頃であったか分かない。ただ弥右衛門の子孫の釈浄(戒名)が、天明9年10月12日に没して、弥右衛門を祀る者が絶えてしまった。誠に哀しいことである。名塩の地の数百戸の家ゝは、農・工・商家といえども弥右衛門の恩恵を受けていない者はない。だから今ここに、製紙業者が相談してこの碑を建てた。今後其の恩に報いる者は、弥右衛門の子孫の没した日を、その始まりの日としてほしい。これによって弥右衛門の徳を追慕する。」とある。 明治16年(1883年)、明治政府から弥右衛門は追賞されている。その追賞授与証が残っている。(西宮市塩瀬支所蔵) 「 追賞授与証兵庫県摂津国有馬郡名塩村 故 東山 弥右衛門文明年間居村ニ耕地ノ乏シキヲ患ヒ民ニ製紙ノ業ヲ授ケ遂ニ一方物ヲ成ス 後生(き)其沢ヲ蒙ル者少カラス因テ之ヲ追賞ス明治十六年十一月八日 農商務卿正四位勲一等 西郷従道」 これは当時の名塩村戸長役場よりの上申に基づき、功労者として授与されたものと思われる。この授与証により、当時の名塩紙の名声と当時の紙業の隆盛がくみ取れる。 東山弥右衛門に関する悲劇的な伝承が名塩教行寺文書にある。(中山秀静「名塩紙」) 「何時の頃にや、東山弥右衛門といへる仁あり、若くして越前に至り、さる製紙家の婿養子となって製紙の法を拾得す。習い得て後、妻子を置き去りて郷里名塩に帰る。これより名塩の地に紙をだす。然るに妻女、弥右衛門の跡を慕ひて来たりしに、里人之を追うて村に入れず。妻女その無情を恨み「村に癩(らい)者絶やさず」と呪い言して死す。」 越前に残された妻は、弥右衛門を慕ってはるばる名塩を訪れてきたが、村人たちは弥右衛門に今去られては、せっかく始まった紙業が崩れてしまうのを恐れて妻を村に入れなかった。妻は村人達の無情を恨み、呪い言葉を残して、川に身を投げて死んだと言うのである。この悲劇的伝承は、昭和44年(1969年)に水上勉によって「名塩川」という題名で小説化されて大好評を博した。NHKからも義太夫で放送されて、また京都の「都おどり」、および宝塚歌劇団(昭和51年(1976年)題名「紙すき恋歌」)でも上演されている。小説であり、史実と異なる。名塩鳥の子の始祖としての弥右衛門に関しての伝承は他にもあるが、史実としては以下の説が最も説得性がある。 名塩の源照寺の永大経奉納木札や源照寺文書によって、安永・天明のころに弥右衛門が名塩にいたことは確かである。そしてそれ以前に名塩に弥右衛門に関する史料が一切見あたらない。 名塩に弥右衛門が現れる安永年間以前に、越前五郷(岡本五箇ともいう)の岩本村に弥右衛門家、と大滝村にも弥右衛門家があった。安永年間より前の宝暦・明和年間(1751年 - 1771年)は、越前五郷地方は天候不順がつづき、大雨による洪水や日照り続きの干ばつによって農産物は大凶作となった。農産物の大凶作とともに製紙原料の楮(こうぞ)や雁皮(がんび)などの自生植物も採取が困難となり、特に鳥の子に用いる雁皮は栽培が不可能で、製紙業も原料入手難から困窮を極めた。 このため高持ち百姓のうちには田畑を手放して水呑み百姓に転落するものが続出した。その転落者のなかに、岩本の弥右衛門家か大滝村の弥右衛門家がいたと思われる。そのなかに没落に耐えきれず村落ちして、縁故をたどって同業の名塩の地へ移った者がいたと考えられる。越前五郷には真宗派の寺院があり、名塩の源照寺なども真宗派であった。結束の強い真宗門徒の接触があり、縁故かつてがあったとも考えられる。 名塩でも弥右衛門を名乗り、優れた越前の鳥の子の製紙技術を指導し、さらに改良や普及に尽力して、その業績を高く評価されて名塩鳥の子の始祖と讃えられるようになったと思われる。
※この「名塩鳥の子紙の起源」の解説は、「鳥の子紙」の解説の一部です。
「名塩鳥の子紙の起源」を含む「鳥の子紙」の記事については、「鳥の子紙」の概要を参照ください。
- 名塩鳥の子紙の起源のページへのリンク