各地への宣撫とカルマト派の侵攻
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「各地への宣撫とカルマト派の侵攻」の解説
ジャウハルは早ければ969年11月もしくは12月に上エジプトの盗賊団を掃討するために以前のイフシード朝の将軍であるアリー・ブン・ムハンマド・アル=ハーズィンが率いる部隊を派遣した。一方でナイルデルタの状況はより不安定であった。湿地帯と地元住民の複雑な社会的、宗教的な分裂状態はクターマ族にとって馴染みのないものであったため、当初ジャウハルは以前のイフシード朝軍の将卒にも現地の経営を委ねていた。自身の部下とともにファーティマ朝に帰順したムザーヒム・ブン・ラーイクがファラマの知事に任命され、元イフシード朝軍の指揮官のティブルが重税に対する反乱を起こしたティンニース(英語版)に派遣された。しかしティブルはすぐに反乱側へ寝返り、その指導者となって地元の人々に税の支払いを拒否するように働きかけた。甘言でティブルを帰参させることに失敗すると、ジャウハルはティンニースに対して別の部隊を送った。ティブルはシリアへ逃亡したものの、ファーティマ朝によって捕らえられて処刑された。 971年9月にジャウハルはジャアファル・ブン・ファッラーフに勝利した後にエジプトへ侵攻してきたカルマト派と対峙しなければならなかった。カルマト派の軍隊はフスタートへは直接進まずにデルタ地帯の東部に向かった。カルマト派の軍隊の到来はティンニースの抵抗を再燃させ、地域全体が反乱を起こした。ファーティマ朝の軍隊は一時的にファラマを奪回したが、反乱を前にしながらもカルマト派の軍隊を追跡してフスタートへ引き返さなければならなかった。しかしながら、これらの出来事はフスタートへのカルマト派の攻撃を2か月遅らせることになり、フスタートの北に位置するアイン・シャムス(英語版)にナイル川からムカッタム(英語版)の丘まで10キロメートルにわたって伸びる防御施設と堀を準備する時間をジャウハルに与えた。ファーティマ朝の将軍はフスタートのほぼ全ての男性住民に武装を命じ、大きな損害を被ったにもかかわらず、971年12月22日と24日の二回にわたった激しい戦闘の末に撃退することに成功した。カルマト派の軍隊は敗走してパレスチナへ撤退し、退却中に多くの者がジャウハルの報奨金を目当てに殺された。戦闘の2日後にイフリーキヤからアル=ハサン・ブン・アンマール・アル=カルビー(英語版)が指揮する援軍が到着し、ファーティマ朝がエジプト全域の支配を確保した。 カルマト派の侵略はティンニースとナイルデルタにおける反乱を活発化させただだけでなく、反ファーティマ朝の運動の全面的な増加へとつながった。上エジプトでは以前の同盟者であるキラーブ族(英語版)の指導者のアブドゥルアズィーズ・ブン・イブラーヒームがアッバース朝のカリフの名の下で反乱を起こし、これに対してヌビア人の将軍のビシャーラが指揮する遠征軍が派遣された。アブドゥルアズィーズは973年の初めに捕らえられ、檻に入れられてカイロへ移送された。 ナイルデルタにおける反乱は数年間続き、ジャウハルは反乱の対処に必要な資源の消費を抑えることができなかった。しかしながら、その後ファーティマ朝が力ずくによる鎮圧を強いられたのは、アル=ハサン・ブン・アンマールの指揮の下で軍隊が派遣された972年の夏の時のみであった。カルマト派はティンニースを支援するために艦隊を派遣したが、972年9月もしくは10月に7隻のカルマト派の艦船と500人の乗組員がファーティマ朝の艦隊に捕らえられた。マクリーズィーはこれを1年後の973年6月もしくは7月の出来事と記録しており、このためティンニースに対して二回カルマト派の海軍の遠征が行われていた可能性がある。これはムイッズがカルマト派に対して二回海戦で勝利を収めたとするイブン・ズーラークの記録とも整合している。ティンニースは最終的に屈服し、報復行為を避けるために賠償金として1,000,000ディルハムの銀貨を支払った。
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