取調べと裁判
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取調べが始まると、サファロフはマルガリャンの殺害およびマクチャンに対する殺害の意図を認めた。犯行の動機について聞かれた時、サファロフは以下のように答えた: 私は後悔していますよ、今回の件までに1人のアルメニア人も殺さなかったこと。我が軍は私をこの訓練プログラムに送りましたが、ここで私は2人のアルメニア人も我々と同じコースに参加することを知りました。アルメニア人に対する恨みが私の胸の奥から湧いたことを言わなければなりません。最初のうちに我々は互いに挨拶していた、いや、むしろ彼らが私に対して「hi」と挨拶しましたが、私は彼らを無視しました。私は彼らを殺した原因とは、彼らが私の側を通ったところ、我々の顔に向かって微笑んだことです。その一瞬に彼らを殺し、その首を斬ることに決意しました[信頼性要検証]。私は今までの14年間ずっと軍隊にいますが、もし私が民間人だったらアルメニア人を殺せるかどうかは分かりません。私はそんなことについては考えませんでした。〔ママ〕私の仕事は彼らを皆殺しすることで、彼らが生きている限り、我が同胞がずっと苦しみます[信頼性要検証]。.. どこでもいつでも、私は同じことをすると思います。もしここにアルメニア人がさらにいたら、私は彼らを皆殺しするつもりです。残念なのは今回の行動が初の試みで、よく準備していなかったことです。私の天職はアルメニア人を皆殺しすることです。 クティ・バラージュによると、この語学訓練コースが始まった時、知り合ったばかりの参加者たちは様々な国際問題について話し合ったが、そのうちに誰もそれを話さなくなった。また、クティはマルガリャンとアゼルバイジャン軍士官の関係について、何の対立もなかったと言った。マクチャンの隣室に泊まっていたサウルス・パウルス(Saulus Paulus)士官もマルガリャンとサファロフとの間に何の変な雰囲気も現れなかったと言った。他の参加者たちも同様に、アルメニア人とアゼルバイジャン人の間には何の争いもなく、むしろコミュニケーションが全くなかったと証言した。アルメニアに帰国した後、マクチャンが新聞紙「イラヴンク・デ・ファクト」のインタビューで、マルガリャンも彼もアゼルバイジャン軍の士官たちとは一度接したこともなかったと答えた。「彼らはコミュニケーションできるタイプではありません。彼らはいつも、授業が終わると真っ直ぐに自分の部屋に戻っていました」とマクチャンは語った。また、なぜマルガリャンを先に襲ったのかを聞かれると、サファロフは、マルガリャンがよりたくましくて、スポーツ選手のような体形だったからであると答えた。 一方、裁判では弁護側が殺人の動機について、被害者のマルガリャンがアゼルバイジャンの国旗を侮辱したことが直接な原因であると主張していた。この主張にはいくつかのバリエーションがあり、アゼルバイジャンのメディアやサファロフの擁護者の間で流布していた。例えば、マルガリャンあるいはマクチャンがアゼルバイジャンの国旗に対して小便したり、その国旗を靴磨きに使ったりしたという話や、「アゼルバイジャン人の婦女子の苦しむ声」を収録したオーディオを流したという話があった。しかし、法廷でそれらの嫌がらせ行為を裏付ける証人は1人も呼ばれなかったので、検察側はそういった行為の有無について大きな論争を起こした。サファロフは、取調べに際しても公判でもそれらの主張について触れず、マルガリャンを殺害した原因は単に彼がアルメニア人だったためである、と一貫して主張していた。根拠がないにもかかわらず、国営放送機関を含むアゼルバイジャンのメディアは、国旗に関するバージョンを一日中に放送し、サファロフを国民的英雄に化せた。 サファロフの弁護士たちは裁判で、犯行当時サファロフが不安定な精神状態であり、さらにPTSDも患っていたと主張し、陪審の説得を試みた。さらに、サファロフはナゴルノ・カラバフ戦争によって心的外傷を負っており、彼の家族も故郷のジャブライルではアルメニア人による残虐行為の対象とされていた、とも主張した。しかしこの主張は、1992年から1996年にかけてサファロフがバクーとトルコに留学していたという彼自身の証言とは矛盾する。アゼルバイジャン人医師による精神鑑定の結果は、サファロフが「完全に正気」であったとは言えない、というものだったが、もう一つの精神鑑定による「サファロフは当時正気であり、その行為の結果についてよく知っていた」という結果を裁判長は採用した。 2006年4月13日、ハンガリーの裁判所はサファロフに対し、30年間仮釈放なしの終身刑を言い渡した。裁判長のヴァシュクティ・アンドラーシュ(ハンガリー語: Vaskuti András)は犯行の計画性と事件の残虐性、そしてサファロフの自責しない態度を考え合わせてこういった判決を決めたと言った。判決を下した時、裁判長は「戦時以外に熟睡中の人を殺害するのはいつでもどこでも犯罪だ。それは英雄化すべきものではない」と強調した。2007年2月22日、ハンガリーの控訴裁判所はサファロフの弁護人に対し、元の判決結果を維持する決定を下した。入獄していた間、サファロフはハンガリー作家の数冊の小説をアゼルバイジャン語に翻訳した。その中で最も有名なのは、サボー・マグダの『扉』(ハンガリー語: Az ajtó) とモルナール・フェレンツのジュブナイル『パール通りの少年たち』(ハンガリー語: A Pál utcai fiúk) である。
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