残虐性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している。 もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている。横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない。 信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である。『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首を薄濃(はくだみ)にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七)。桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。
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