原因不明の奇病で長期入院・幕内から幕下へ陥落
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「剣晃敏志」の記事における「原因不明の奇病で長期入院・幕内から幕下へ陥落」の解説
新三役(小結)だった1995年5月場所では40度を超える高熱を発したが、一切休場せずに5勝10敗で取り終えた。剣晃はその後も持病の痛風にも悩まされながら、幕内上・中位で活躍していた。 ところが、1996年11月場所辺りから再び体調を崩し、原因不明の発熱と貧血の症状に苦しむも場所中に点滴治療などを続けながら強行出場していた。だが1997年3月場所に入ると急激に体重が落ち、120kg台まで痩せてしまう。次の同年5月場所には前頭11枚目の地位で千秋楽に勝って8勝7敗と勝ち越したが、これが剣晃にとって生涯最後の出場場所となってしまった。 剣晃は1997年5月場所後、大阪市内の病院に緊急入院。同年7月場所(前頭6枚目)の剣晃は、初土俵以来初めての休場(休場理由は「不明熱」)となった。当場所以後は、一度も出場が無いまま全休を続けたために、番付は幕内から十両(1997年9月・11月場所)を通り越して、幕下(1998年1月・3月場所)の地位まで転落した。剣晃はこの際に、検査によって病名が「汎血球減少症」と判明し、抗がん剤など投薬の影響によって剣晃の髷は全て抜け落ちてしまっていた。汎血球減少症とは白血病の一種で、当時の日本ではまだ4例しか報告例が無い(そのうち2例は当時既に死亡)奇病であり、治療法は確立されていなかった。入院して間もない1997年の夏、剣晃の実母は既に医師から「残念ですが、息子さんは助かりません」との宣告を受けていた。 なお発症の原因について、ある担当医は痛み止めの注射が好ましくない化学反応を起こしたという説を、またある担当医はウイルス感染説も唱えていた。ただ、剣晃は最後まで生きる希望を捨てなかった。「オレの本当の病気はなんなんだ。もう一度社会復帰できるのか、出来ないのか。親には言わずにオレにだけ、本当の事を言ってくれ!」と迫り、自身も枕元のカバンが一杯になるほどの医学書で真相解明に励んだ。翌1998年2月、一時退院出来る程に体調が一旦回復した剣晃は、実兄と共に小・中学校や幼少時に遊んだ公園など思い出の場所を歩いたり、家族揃って和歌山県へ3泊の温泉旅行に出掛けたりしていたという。だが、この頃の実母は「本人も死が近い事を分かっていたようです…」と述懐している。
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