北谷恵祖事件
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北谷恵祖事件(ちゃたんえそじけん)とは、1667年、琉球王国の不祥事に薩摩藩が介入、処分した事件である。
- 1 北谷恵祖事件とは
- 2 北谷恵祖事件の概要
北谷・恵祖事件
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1660年代なかばに起こった、羽地が摂政に就任する契機となった事件。進貢の際に金品略奪が起こり、これに三司官等王府首脳部も関わっていたことから、薩摩藩により首脳部が引責辞任に追い込まれたことで羽地が摂政に就任することとなった。 1609年の薩摩島津氏の侵攻以降、王府中枢では、薩摩の支配を受け容れる王に対し、薩摩の命に従わない役人たちによるサボタージュが相次いでいた。侵攻時の国王である尚寧の次代に当たる尚豊の政権下では、島津氏の支配と冊封朝貢関係を両立・整合させ、島津氏と妥協しつつ王権を維持しようとする尚豊に対し、島津氏の命により中国で購入する物品に粗悪品を選ぶなどして島津氏に対抗しようとする勢力が存在したのである。 そうした政治情勢のなか、1663年に清朝による初の冊封が実現し、その謝恩使として三司官の北谷(ちゃたん)親方朝暢が派遣された。その翌年の1664年には、聖祖康熙帝の即位を祝う慶賀使として恵祖親方重孝が派遣された。恵祖等が福州に入港する直前に暴風に遭い、それに乗じて海賊に襲撃された。この混乱に際して、皇帝への慶賀品が奪われただけでなく毒殺事件まで起こった。そしてさらに問題となったのは、海賊等ふくめ事件は全て乗組員や福州に滞在している琉球人の自作自演であることが判明したことである。薩摩は関係者を藩に呼び出し、厳しく尋問した。その結果、監督責任を問われた北谷と恵祖は、二人とも斬首。二人の家族も連座となり宮古・八重山に流罪となった。 この事件の顛末から、羽地の摂政就任が薩摩藩による琉球の新たな支配編成の要求を担っていたものであるということがわかる。なお琉球は、この事件と同時期に、薩摩との緊張関係緩和を目指し、毎年中国に行き貿易することが可能となる接貢船の制度化を進めることで朝貢貿易の再建・拡大を目論んでいた。しかし鄭氏からの攻撃やそれに続く中国大陸における三藩の乱勃発により、海外貿易政策を介した薩摩との関係改善は打開策を見いだせないでいた。
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