勅許の廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:23 UTC 版)
ニューイングランドの植民地の統治は、マサチューセッツやコネチカット、ロードアイランドなどでは自治の程度が強かった。しかし、特にマサチューセッツ湾植民地は、航海条例を遵守しないことが本国で問題となり、1660年代からチャールズ2世による監視が強くなり、1670年代末には監視は事実上の脅威となった。1676年に、ニューイングランドに総督のエドワード・ランドルフが派遣された。彼の仕事は関税を集め、航海条例の効力を強め、問題点の一覧を文書化し、その申し立てをロンドンの商務院に持って行くことだった。この圧力にどう応えるかで植民地の指導者層は二分された。ダドリーは、義兄のサイモン・ブラッドストリートや、ウィリアム・ストートン共々穏健派で、国王の要求を聞き入れることを支持した。穏健派と対立していた強硬派は、植民地の諸事業に介入しようとする国王の策動に反対していた。これらの派閥は階級によって分かたれていた。上院にあたる植民地顧問会(コート・オブ・アシスタンツと呼ばれた)の議員を務める裕福な地主や商人は穏健派を支持し、一方、代議制の下院議員は強硬派を支持した。 1682年、マサチューセッツはダドリーとジョン・リチャーズを、この件におけるマサチューセッツ代表委員として商務院に派遣した。ダドリーはプリマス総督トマス・ヒンクリーの、植民地長官ウィリアム・ブラスワイトあての紹介状を持参していた。このとき以降ブラスワイトと良好な関係を結んだことが、ダドリーの植民地行政官としての将来の成功に寄与したが、植民地の側では、ダドリーの動機や能力が植民地の権益代表として適任かという疑惑を広めることにもなった。ダドリーたちの植民地代表としての権限は限られていたが、商務院側は、国王が植民地の自治を許可した勅許状の修正を交渉する権限が、植民地代表に与えられているべきであると植民地側に対して主張した。強硬派の多い立法府は、この要求を拒んだ。勅許の無効化を要求する権限開示令状がただちに発行されることとなった。この令状は、勅許状の放棄を要求するものだった。1683年の末、ダドリーがこの知らせをボストンに持ち帰ると、立法府での議論が白熱化し、強硬派がまた優勢になった。強硬派の中心人物のひとりで、影響力のある聖公会の牧師であったインクリース・マザーは、ダドリーやブラッドストリートのような穏健派を植民地の敵として非難した。ダドリーとともにマサチューセッツ代表委員として商務院に派遣されたリチャーズは、ロンドンで敵意にさらされたにもかかわらず強硬派に与したので、強硬派の憎悪はもっぱらダドリーに向けられ、結果として、ダドリーは1684年の選挙で落選し上院議員の資格を失った。 この一件をきっかけに、ダドリーは自身の出世の手段として、ロンドンでひそかに勅許の取り消しを企んだのだ、という非難が広まった。ダドリーはエドワード・ランドルフと、現状の統治形態に代わる統治について話し合ったとされているが、その話し合いは、権限開示令状の発行前のことではなかった。このことは、ダドリーが植民地の統治形態の現状に反対していること、植民地代表としての職務に反していることの証拠とされた。ダドリーとの議論を通してダドリーが気に入ったランドルフは、選挙に落選したダドリーは国王の忠実な臣下になるだろう、と考えるようになった。その結果、1684年のおそい時期に、ボストンでは、ダドリーが総督に任命され、ランドルフがその代理として実権を握るのではないか、という噂が広まった。 1684年、勅許は無効となり、商務院はニューイングランド各地の植民地を、ニューイングランド自治領という1つの植民地に統合する計画を立て始めた。ジェームズ2世が1685年に王位に就いた時も、この計画は進行中だった。しかし、次期総督予定のサー・エドマンド・アンドロスへの委任状の起草に問題が生じ、ランドルフは暫定的に総督の任に当たる者を任命することを提案した。ダドリーは、ランドルフの推薦により、この仕事に選ばれ、1685年10月8日にニューイングランド自治領評議会議長とする任命書が交付された。ダドリーの職務の領域の範囲は、マサチューセッツ、ニューハンプシャー植民地、メイン植民地、そして現在のロードアイランド州の南部で、当時は紛争地域だった「ナラガンセット・カントリー」であった。ランドルフは、植民地長官を含め、総督を補佐する多数の職務に任命され、植民地において少なからぬ権力を与えられた。
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