前期水戸学とは? わかりやすく解説

前期水戸学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:07 UTC 版)

水戸学」の記事における「前期水戸学」の解説

明暦3年1657年)、水戸藩世子徳川光圀江戸駒込別邸内に史局開設し紀伝体日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業開始した藩主就任後の寛文3年1663年)、史局小石川邸に移し彰考館とした。 当初史局員は林羅山学派出身の来仕者多かった寛文5年1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水招聘する。舜は、陽明学取り入れた実学であった光圀優遇もあって、編集員も次第増加し寛文12年1672年)には24人、貞享元年1684年37人、元禄9年1696年53となって40人~50人ほどで安定した前期彰考館編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身多かった編纂過程においては第一目的である大日本史編纂のほか、和文和歌などの国文学天文・暦学・算数地理神道古文書考古学兵学・書誌など多く著書編纂物残した実際に編集員を各地派遣して考証引用した出典明記史料遺物保存尽くすなどの特徴がある。この頃代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳丸山可澄(活堂)、安積澹泊栗山潜鋒打越直正(撲斎)、森尚謙三宅観瀾らがいる。 「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世大きな影響与える(南北朝正閏論)。ただし、光圀においては北朝及び武家政権確立異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった光圀死後編纂事業継続されたが、元文2年1737年)、安積澹泊死後修史事業50年間ほど中断態となった。

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