修行時代、芥川賞受賞
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1965年、早稲田大学受験の名目で同級生とともに上京するが、実際に大学受験をしたかどうかは定かではない。その後入学した早稲田予備校には三ヶ月も通っておらず、仕送りを受けながら、仕事もせずに、新宿あたりをうろつくといった生活をしていた。当時盛んだったフリージャズを中心とするモダンジャズにのめりこみ、ジャズ喫茶のジャズビレッジ やビレッジバンガードに入り浸った。 1965年の秋、原稿を投稿するために月会費を払い込んで同人誌『文藝首都』の会員となる。翌年、投稿した『俺十八歳』が掲載される。その後、同誌の同人となりエッセイ、創作を同誌に発表していく。この頃は、盛んに詩作をしており『文藝首都』『詩学』『文學界』などへ詩を発表している。また『文藝首都』を通じて、後に妻となる山口かすみ や津島佑子と知り合っている。 1967年頃には新左翼運動に関わっている。偽学生として早稲田大学でブント系の組織と接触して羽田闘争に参加している。1968年、『三田文学』誌を通じて柄谷行人 と知り合い 、柄谷からウィリアム・フォークナー 、エリック・ホッファーなどを勧められて大きな影響を受けた。1970年、交際していたかすみの妊娠を機に結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する。結婚をきっかけにして、中上は肉体労働を始め、その夏から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する。 1973年『十九歳の地図』が芥川賞候補となる。これを受けて1974年から文芸誌への作品掲載が増え始める 。羽田での仕事を辞めて、その後二年間、築地魚河岸や運送会社などでフォークリフトの運転手をして生計をたてながら執筆を続ける。1975年『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年、熊野の「路地」を舞台に、家業の土方仕事に従事する青年を中心とした複雑な血族の物語を描いた『岬』で第74回芥川賞を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。
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