佐吉と上海とは? わかりやすく解説

佐吉と上海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:46 UTC 版)

豊田佐吉」の記事における「佐吉と上海」の解説

1918年大正7年)に佐吉上海へ渡った海外への進出彼の長年の夢であった。すでに上海紡績内外綿という大手会社上海工場操業させていた。しかし、社内からは強い反対があった。この年1月豊田紡織株式会社改組たばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉三井物産支援もあり、進出決断した。この時進出渋る親族説得する際に語った障子開けてみよ、外は広いぞ」の格言は有名である。翌1919年大正8年)には秋次を伴い再び中国渡航し上海滞在した三井物産古市勉の尽力もあり、上海での工場建設にこぎ着けた。 1921年大正10年)には豊田紡織廠として本格的に稼動始めた。ようやく日本から進出した企業群、在華紡一員となった佐吉中国での私邸として、ドイツ人住宅購入した個人の家というより、城のような威容を誇る大邸であった。それは従業員住まわせるという目的もあったが、立派な企業社長であることを示す必要もあったからでもある。 しかし、順調な豊田紡織廠操業反し上海では1924年大正13年)に入ると反日運動日貨排斥運動激しくなった。一部暴動にまで発展する工場出てきた。ストライキ主導するグループ警察の間で衝突起こり死傷者出た在華紡最大内外綿をはじめ、ほとんどの工場休業追い込まれた。唯一正常な操業続けていた豊田紡織廠にも暴動起こり、1名の死者多数負傷者出した。この時、日本国内で軽い中風発作静養していた佐吉周囲反対押し切り上海へ駆けつけた。 佐吉1930年昭和5年)に亡くなるが、中国での事業その後も、利三郎喜一の手により発展し豊田紡織廠の第2工場青島工場建設をして増産図ったまた、国内生産するようになった自動車販売のために華中豊田自動車設立した海外への進出という佐吉の夢は、後継者によって着実に受け継がれた。 佐吉は「日本人もまた中国人心持ち真相理解することじゃ、その相互理解一致して提携となり、親善となり、唇歯輔車の関係が此処に出来上がるのじゃ」と述べたとされ、文化財指定されている上海豊田紡織廠記念館は日中友好シンボルとなってる。

※この「佐吉と上海」の解説は、「豊田佐吉」の解説の一部です。
「佐吉と上海」を含む「豊田佐吉」の記事については、「豊田佐吉」の概要を参照ください。

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