仏教への帰依とは? わかりやすく解説

仏教への帰依

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:47 UTC 版)

玄奘」の記事における「仏教への帰依」の解説

陳褘は、隋朝仁寿2年602年)、洛陽ほど近い洛州緱氏県(現在の河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男として生まれた。母の宋氏は洛州長吏務めた宋欽の娘である。字は玄奘で、戒名はこれを諱とした。生年は、上記602年説の他に、598年説、600年説がある。 陳氏は、後漢陳寔を祖にもつ陳留出身士大夫家柄で、地方官歴任した。特に曾祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代上党郡太守になっているその後祖父である陳康は北斉仕え緱氏へと移住した8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教え受けた。この逸話により、陳褘神童ぶりが評判となった10歳で父を亡くした陳褘は、次兄の長捷(俗名は陳素)が出家して洛陽浄土寺に住むようになったのをきっかけに、自身浄土寺学び11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになったほどなくして度僧募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿である鄭善果中国語版)は、陳褘様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠く如来を紹し、近く遺法光らせたいから」と答えた。これに感じ入った善果は、「この風骨得がたいものだ」と評して特例認め陳褘度牒得て出家した。こうして兄と浄土寺住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ武徳元年618年)、隋が衰え洛陽情勢不安定になると、17歳玄奘は兄と長安荘厳寺へと移った。しかし、長安は街全体戦支度に追われ玄奘の望むような講釈はなかった。かつて煬帝洛陽集めた名僧らは主に益州散らばっていることを知った玄奘は、益州巡り志し武徳2年619年)に兄と共に成都へと至って阿毘曇論』を学んだ。また益州各地先人尋ねて涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究進め歴史老荘思想への見識深めた武徳5年622年)、21歳玄奘成都具足戒受けたここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘一人旅立ち商人らに混じって三峡下り荊州天皇寺学んだその後先人求めて相州行き、さらに趙州で『成実論』を、長安大覚寺で『倶舎論』を学んだ

※この「仏教への帰依」の解説は、「玄奘」の解説の一部です。
「仏教への帰依」を含む「玄奘」の記事については、「玄奘」の概要を参照ください。

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