井上準之助と金解禁断行
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1929年(昭和4年)7月、新しく成立したのは濱口雄幸を首班とする立憲民政党の濱口内閣である。新内閣の大蔵大臣には、元日本銀行総裁で元大蔵大臣(第2次山本内閣)の井上準之助が任命された。立憲民政党は「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」を公約に掲げていたが、日銀総裁・大蔵大臣を歴任した井上にはその旗振り役が期待されたのである。井上は直ちに「旧平価による金解禁の実施」を主張して、その準備のために緊縮財政を実施の上で財政支出を抑え、為替相場を回復させることを表明したのである。 濱口や井上が金解禁や財政再建とともに重要視していたのは、産業の構造改革であった。明治時代以来の政府(官僚・軍部)と政商・財閥のもたれ合いの上に発達を遂げた日本の産業の国際競争力は、決して強いものとは言えなかった。特に、第1次世界大戦後の不況の長期化は、こうした日本経済の悪い体質にあると、濱口や井上は考えた。金解禁によるデフレと財政緊縮によって一時的に経済状況が悪化しても、問題企業の整理と経営合理化による国際競争力の向上は進み、金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能が発揮されて、景気は確実に回復するはずであると考えたのである。 まず、井上は、前内閣が定めた昭和4年度当初予算の5%にあたる9,000万円のカットを行い(予算総額16億8千万円)、続いて昭和5年度予算も緊縮型予算(予算総額16億1千万円)とした。また、公務員給与の1割カットを提唱した(ただし、実行されず)。さらに、津島寿一を再度アメリカ・イギリスに派遣して、アメリカ・イギリスの銀行から1億円相当のクレジットの約束を取り付けた(11月19日横浜正金銀行)。また、日本銀行には公定歩合の引き上げを、横浜正金銀行には円為替への介入と外貨集積を指示した。これによって保有外貨が3億ドルに増加し、為替相場が48ドルまで戻った。これを見た濱口内閣は、同年11月21日、来年1930年(昭和5年)1月11日をもって旧平価による金解禁を実施することを発表した(大蔵省省令)。井上は金解禁の目的を「財界の安定」・「国民経済の根本的建直し」・「日本経済の世界経済への常道復帰」・「金本位制の擁護」・「日本の経済力の充実発展」の5点を掲げ、金解禁に伴う景気への悪影響を最小限に抑制するために国民に対して消費節約と国産品愛用を訴えた。 ところが、この少し前の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落が発生して、アメリカ経済は大混乱に陥っていた(「暗黒の木曜日」)。これが後の世界恐慌のきっかけになるが、当初日本国内ではその影響について意見がまちまちであった。これを見た「新平価論」を唱えていた石橋ら経済評論家やアメリカ経済の動向を危惧する三菱財閥の各務鎌吉らは、旧平価での金解禁に強く反対した。一方、三井財閥の池田成彬を中心とした金融界は、これ以上の金解禁の遅延は許されないとして金解禁を支持。井上も、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していたことから、今回の恐慌を通常経済の範囲内の出来事と考えたために方針変更を行わなかった。 そして、1930年(昭和5年)1月11日、当初の予定通り「金2分=1円=0.49875ドル」(1ドル=2.005円)の旧平価による金解禁が実施されたのである。
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