五賢帝
五賢帝時代
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ネルウァ帝と彼に続く五賢帝時代は、ローマ帝国の最盛期であり、近代の歴史家によって「人類史上、最も幸福な時代」と評されたこともあるが、帝国の歴史を俯瞰するならば、繁栄から衰退への転換期であったとされる。建築についても、すでにユリウス=クラウディウス朝後期にヘレニズム建築の伝統は変質しはじめていたが、五賢帝時代になると新たな建築意匠が明確に模索されるようになり、また、表現されることになる。ハドリアヌス帝の死以後、首都の建築活動は衰退するものの、この時代に建設された建築は、属州のみならず、初期キリスト教時代にまで影響を与えた。
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五賢帝時代
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「第7軍団クラウディア・ピア・フィデリス」の記事における「五賢帝時代」の解説
トラヤヌスの治世では、ダキア戦争に従軍、この一連の戦いで第7軍団は重要な役割を果たし、ローマ帝国の管轄となった。またセルビア地方における彼らの駐屯地は戦役の重要な中継地点となった。116年には東方でユダヤ人が反乱(キトス戦争)、これに対してトラヤヌスは第7軍団をキプロス島へ派兵。トラヤヌスがパルティアとの戦闘を継続していた事から、この時点では第7軍団の任務先はメソポタミアであったと思われる。 160年になると第7軍団は東方より帰還、ローマ軍の再編によりドナウ川流域に戻り、マルクス・アウレリウス・アントニヌスのもとでゲルマン人相手にマルコマンニ戦争を戦うが、疫病などで苦戦を強いられる。169年には軍団の維持のために年1回であるはずの新兵の増強を2回行わねばならないほどであったと言う。しかし戦局としてはローマ軍に有利に進みドナウ川を越えての属州を建設する予定であったが、175年にシリア属州総督ガイウス・アウィディウス・カッシウスが反乱、カッシウス自身は部下に殺されたもののドナウ川流域の戦局に影響を及ぼし、属州建設の計画は頓挫した。178年から180年にかけて再びドナウ川流域で紛争が勃発、ローマ軍は制圧に乗り出す。詳しい内容は現在には伝わってはいないが、第7軍団がこの制圧活動に重要な役割を担っていた事はほぼ間違いはないと考えられている。ドナウ川流域のローマ軍の戦役はマルクス・アウレリウスの死去まで続いたが、次の皇帝コンモドゥスは戦役の終了を宣言、しばらく軍団にとっては平穏な時期が続いた。
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五賢帝時代
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パンノニアではサルマタイの侵略に防衛、トラヤヌスの治世にダキア人との戦争に従軍、後にカルヌントゥムに移転、以降軍団の終焉までこの地に駐在する事となった。この地では主にマウリ族の国境侵犯を防御、またルキウス・ウェルスのもとでパルティアとの戦争にも従軍、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代となると、軍の指揮をカルヌントゥムで取った。
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五賢帝時代
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ネルウァに始まる5代のローマ皇帝は、伝統的な見方によれば、血縁による世襲を行わず、有能な者を養子として後継者に選び、元老院の承認を得て帝位を継承したとされる。元老院の承認を得る時点である程度の政治的地盤が必要となることから、近年では政治抗争を勝ち抜いた人々であるとする説も唱えられているが、いずれにせよ有能な人物を後継者として帝位を継承したことには違いはない。この5代の皇帝を五賢帝と呼ぶ。ユリウス=クラウディウス朝以降、プリンキパトゥスは全くの建前に過ぎず、血統による皇位継承がなされた。しかしこの時代においては、皇帝は言わば終身大統領とも言うべき存在であり、プリンキパトゥスが実質的に機能していたのである。ただしこれは、五賢帝のうち4人が実子を持たなかったからそうせざるを得なかっただけに過ぎず、事実としてやや遠いとはいえ五賢帝のほとんどは血縁関係があった(そのため五賢帝時代をネルウァ=アントニヌス朝と看做す見解も存在する)。よって五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌスに実子コンモドゥスが存在したこと、彼が非常な暴君であったことによって、五賢帝時代は終焉を迎える。
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