マルコマンニ戦争
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マルコマンニ戦争(マルコマンニせんそう、ラテン語: bellum Germanicum[1] ベッルウム・ゲルマニクム)は、162年から始まったローマ帝国の北方国境で発生した戦争の総称。主要な敵対勢力であったマルコマンニ人からこのように呼ばれるが、彼らはあくまで参加勢力の一派に過ぎない。戦いの最中でマルクス・アウレリウス帝は病没、180年に後を継いだコンモドゥス帝によってローマ側に有利な和睦が結ばれて戦争は終結した。
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- ^ Historia Augusta, Marcus Aurelius, 12, note 92
- ^ Meditations, Book 1, at the Internet Classics Archive
- ^ BBC: Past pandemics that ravaged Europe, 7 November 2005
- ^ Historia Augusta, Lucius Verus, 9.7-11
- ^ Cassius Dio, LXXII.8-10
- ^ Cassius Dio, LXXII.13-14
- ^ Cassius Dio, LXXII.16
- ^ A branch of the Sarmatians, the Iazyges were much prized as heavy, or "cataphract", cavalry
- ^ Historia Augusta, Marcus Aurelius, 24.5
- 1 マルコマンニ戦争とは
- 2 マルコマンニ戦争の概要
- 3 資料
マルコマンニ戦争
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詳細は「マルコマンニ戦争」を参照 紀元2世紀、マルコマンニはクアディ、ヴァンダル、サルマタイといった周辺の民族と同盟関係を結び、ローマと敵対するようになった。これはゴート族のようなより大規模な民族の動きに刺激されたものと見られている。歴史家エウトロピウスによれば、皇帝マルクス・アウレリウス率いる軍がパンノニアのカルヌントゥムの要塞で3年間マルコマンニ同盟と戦った。エウトロピウスはこの戦争とマルクス・アウレリウスの勝利をポエニ戦争と比較している。この戦争はローマ史上重要な転換点であり、ここからローマ帝国の衰退が始まったという意味で、この比較は適切だった。この戦争でプラエトリアニの司令官が2名戦死している。マルコマンニがウィンドボナとカルヌントゥムを攻めたことがきっかけとなり166年に戦争が始まった。マルコマンニ側はパンノニアとノリクムの国境線あたりを侵し、Flavia Solva を荒廃させ、アドリア海に面したアクイレイアにまで迫った。戦争はマルクス・アウレリウスの亡くなった180年まで続いた。ローマが一応勝利したが、得たものは少なかった。それでも、滅亡までローマ帝国はドナウ川を国境線として維持した。
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マルコマンニ戦争
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「マルコマンニ戦争」の解説
詳細はマルコマンニ戦争を参照 コルネリウス・フロントの子息オウフィディウス・ウィクトリアヌスはゲルマニア・スペリオル総督として滞在、ゲルマニア地方の諸族に対する外交政策を一任されていた。ウィクトリアヌスはゲルマニア地方の防備が極めて粗雑な状態にあると報告した。辺境の要塞は多くが破壊され、中欧や北欧では動乱の兆しが見られ、駐屯軍の指揮官階級は腐敗しつつあった。 しばしばアウレリウス時代の総督達は経験ではなく縁故主義によってアウレリウスとその王朝(ネルウァ=アントニヌス朝)と親しい人物から任命された。ルキウス・ダスミウス・トゥッリウス・トゥスクス(L. Dasumius Tullius Tuscus)はハドリアヌス帝の親族で、経験豊富であった上パンノニア総督ノニウス・マクリヌス(Nonius Macrinus)の後任となった。下パンノニア総督は無名の人物ティベリウス・ハテリウス・サトゥルニヌス(Ti. Haterius Saturnius)が務めていた。ラッリウス・バッスス(Iallius Bassus)がルキウス帝のアンティオキアの陣地を訪れた時、マルクス・セルウィリウス・ファビアヌス・マクシムス(M. Servilius Fabianus Maximus)は上モエシア総督から下モエシア総督へと転任した。後任の上モエシア総督にはポンティウス・ラエリアヌス(Pontius Laelianus)の息子が派遣された。西方の防備は弱まる一方で、下パンノニアに至っては軍団が一つも配置されていなかった。 160年代、ゲルマニアやそれ以外の地域に住む諸民族は各地でローマ国境への侵入を試みるようになり、特にドナウ川流域では全域にわたって蛮族の攻撃が繰り返された。この動きは恐らく、より遠方(サルマティアなど)での動乱が影響したものと考えられている。最初に始まった162年のカッティ族による攻撃はゲルマニア・スペリオルの駐屯軍によって撃退された。しかし続いて166年に起きたドナウ川での攻撃はより深刻な事態となり、マルコマンニ族を中核にロンバルディア族・クアディ族などを含めた遊牧勢力がドナウ川を渡河した。さらにこれに呼応してサルマティア族がドナウ川と隣接するティサ川を越えて同じく帝国領内へ進出した。 これらの動きはパルティア戦争の影響で有効に対処できず、3年後の167年になって反撃が模索されはじめた。今度はアウレリウス帝とルキウス帝の双方が軍を指揮したが、169年にルキウス帝が謎の死を遂げるとアウレリウスが単独で親征を継続した。戦いは泥沼の長期戦となり、アウレリウスのそれから死没までの人生はマルコマンニ戦争で使い果たされることになる。遠征の最中、7人兄弟で唯一の生き残りとなっていたコンモドゥスが共同皇帝に指名され、もしもに備えての権力移譲も整えられた。 戦いはローマ軍の苦戦が続き、取り分けクアディ族とマルコマンニ族は2度にわたってローマ軍を打ち破って南下を続けた。両部族は一時イタリア本土にまで到達してオデルツォ市とアクイレイア市が包囲される事態となった。またダキアではコストボキ族がモエシアを越えてマケドニアやギリシャ諸都市を脅かしていた。10年以上にわたって次々と増援戦力が編成されては前線に送り込まれ、アウレリウスは軍勢を鼓舞することに努め続けた。戦争末期には概ねの敵が元の国境地帯に押し返された。しかし蛮族との最終的な和睦は模索されたままで戦いは続き、アウレリウスは発想を転換して逆にゲルマニアへ新しい領域を形成する攻勢主義へと転じる決断を下した。しかし計画は長引く戦乱に対する不満を背景にしたガイウス・アウィディウス・カッシウスの反乱によって断念された。東方属州の大部分を纏め上げていたアウィディウスは、身体の衰えが隠せなくなっていたアウレリウスが病没した噂から挙兵を決断した。しかし後にこれは誤りであったことが判明し、アウィディウスは遠征に出る前にアウレリウス側に内通していた将官によって暗殺された。 その後、再びアウレリウスはボヘミア地方への進出を目指してその準備に奔走したが、実現するより先に寿命が訪れることになった。
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