五四運動から共産党設立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 04:43 UTC 版)
転機は1919年の一次大戦後のパリ講和会議であった。西洋主義者であった陳独秀は、議長であるアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領を「世界で最もいい人」と絶賛し、会議を世界平和が到来する契機として大きな期待を寄せていた。しかし会議では、対華21ヶ条要求でドイツから日本に譲渡された山東半島の権益がそのまま維持されるなど、理想とは程遠い現実に「ウィルソンはウソつきだ」と深く失望する。5月4日に北京の天安門前で、学生を中心として山東半島の中国返還を認めないパリ講和条約への不調印を求める民衆デモ(五四運動)が起こり、多くの市民を巻き込む民衆運動に発展する。陳独秀は民衆の力に深い感銘を受け、自ら街頭で「北京市民宣言」というビラを配っているところを警察に逮捕され、3ヶ月ほどの獄中生活を送る。釈放後は、都市労働者の運動の理論としてマルクス主義に急速に傾倒する。1920年には中国で共産党を設立させるためコミンテルン極東支局からグリゴリー・ヴォイチンスキーが訪中し、1920年8月に、ヴォイチンスキー、陳独秀、李漢俊、沈玄龍、兪秀松、施存統などにより、中国共産党結党準備が始められた。1921年にはソ連のコミンテルンの指導の下で、上海で李大釗などとともに中国共産党を結成し、初代総書記に選出される。
※この「五四運動から共産党設立へ」の解説は、「陳独秀」の解説の一部です。
「五四運動から共産党設立へ」を含む「陳独秀」の記事については、「陳独秀」の概要を参照ください。
- 五四運動から共産党設立へのページへのリンク