中世後期、帝国都市、帝国最高法院
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「ヴェッツラー」の記事における「中世後期、帝国都市、帝国最高法院」の解説
ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ1世バルバロッサは、ヴェッツラー地域に帝国フォークト(代官区)を設け、ヴェッツラー市民をフランクフルト市民と同等に位置づけた。同時にヴェッツラーは帝国都市となり、その地位は1803年まで保持された。都市を護り、帝国の土地であるヴェッテラウを保護するために彼は、ヴェッツラーの高台に帝国城砦カルスムントを増築した。ヴェッツラー近郊でラーン川を渡る交易路、鉄鉱石採掘、毛織物、皮革加工業が都市発展の基盤になったと考えられる。 1277年7月9日付の皇帝の文書に初めてヴェッツラーのユダヤ人に関する記述がなされている。ドイツ騎士団は、1285年から1809年までこの街に館を構えていた。 1285年にフリードリヒ2世を名乗る(実際は1250年にイタリアで逝去している)「偽皇帝」ディートリヒ・ホルツシュー(通り名: ティーレ・コルプ)がヴェッツラーに現れた。彼はノイスから、次代の本物の王であるルドルフ・フォン・ハプスブルクがいるフランクフルトに向かっていた。彼が王としてヴェッツラーに入ると、市長はティーレ・コルプを逮捕し、引き渡した。彼は、魔術師、異端者、冒涜者として「炎による死刑」の判決を受け、その翌日処刑された。 1250年までに都市防衛施設の大部分が完成した。その遺構は現在も見ることができる。14世紀半ばの市の人口は6,000人程度と見積もられている。これは当時のドイツの他の都市との比較において、すでに大都市の一つであった。1350年頃に中世の都市発展は頂点に達した。 ヴェッツラーをゾルムス伯領(ドイツ語版)に併呑しようとするゾルムス伯との何十年にも及ぶフェーデがこの街の生命線である交易の安全を脅かした。このため、ヴェッツラーの北に都市を護るもう一つの城砦が築かれた(1373年 - 1379年)。皇帝はこの街を支援したが、大きな成功を収めることはできなかった。彼は1378年と1393年にこのフォークタイをヘッセン方伯ヘルマン2世(ドイツ語版、英語版)(「学者伯」と呼ばれる)に委託した。これ以後帝国城砦カルスムントを含むヴェッツラーの代官職と守護権はヘッセン方伯のレーエンとなった。このため、新たなヘッセン方伯が就任するたびに参事会と市議会は代官で守護である方伯に忠誠を誓う必要があった。守護関係は何世紀もの間完全に衝突がなかったわけではない。方伯は、軍事力で威嚇して参事会や市議会に対抗しながら、その権利を行使する必要があった。 この街は借金を背負い、1387年に強制管理下に置かれたが、ライン=シュヴァーベン都市同盟に加盟した。街の衰退は三十年戦争の終結まで続き、人口は1,500人にまで減少した。 ヴェッツラーにとって幸運だったのは、1689年に神聖ローマ帝国の帝国最高法院(ドイツ語版、英語版)のヴェッツラー移転が実行されたことであった。1772年の5月から9月まで、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテが見習い生として帝国最高法院に在籍した。彼とシャルロッテ(「ロッテ」)・ブッフとの悲恋は、やがて彼の処女小説『若きウェルテルの悩み』の素材となり、ヴェッツラーを世界に知らしめた。ロッテ通りのドイツ騎士団の館に面したロッテ=ハウスは、現在もこのことをしのばせている。1806年の帝国の消滅とともに帝国最高法院の存在も終了した。フランスに占領されたヴェッツラーは、早くも1803年に陪臣化によって帝国直轄権を失っており、アシャッフェンブルク侯国領やレーゲンスブルク侯領(ドイツ語版、英語版)とともにヴェッツラー伯領として帝国宰相で帝国男爵であったカール・テオドール・フォン・ダールベルクの領邦となり、1810年にフランクフルト大公国が創設された。ウィーン会議の後、この地域は1815年にプロイセン領に編入され、1822年に新たに創設されたヴェッツラー郡の郡庁所在地となった。
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