ローヌ渡河戦
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ローヌ渡河戦(ローヌとかせん)は、第二次ポエニ戦争中の戦闘である。ハンニバル率いるカルタゴ軍がイタリア半島侵攻を行った紀元前218年秋、ガリア人の一部族であるヴォルカエ族とローヌ川東岸のおそらくはアラウシオ(現在のオランジュ)とアウェニオネンシス(現在のアヴィニョン)の間付近で衝突した。親ローマのヴォルカエ族は、マッシリア(現在のマルセイユ)にあったローマ軍の一部として行動しており、カルタゴ軍の渡河とイタリアへの進入を阻止するためローヌ川東岸に野営していた。カルタゴ軍はハンノが率いる分遣隊を上流に派遣して渡河させ、ヴォルカエ軍の背後を襲撃する作戦を実行した。ハンノは到着後に狼煙でハンニバルに連絡し、伏兵として待機した。ハンニバルの本軍が渡河を開始し、ヴォルカエ軍がそれに向かうと、ハンノは背後からこれを攻撃し、ヴォルカエ軍は撃破された。ローマ軍との直接対決ではなかったものの、カルタゴ軍の勝利はこの戦争に大きな影響を及ぼした。ここでカルタゴ軍の渡河が阻止されていたら、紀元前218年のイタリア半島侵攻も無かったと思われる。この戦闘はハンニバルがイベリア半島を出てから最初の大規模戦闘であった。
- ^ Lazenby (1998) p. 276, Appendix III The Diary of the March, sets a precise hypothetical schedule of Hannibal's march. The precision exceeds that of the evidence, but it is based on a synoptic view. The date given is September 25 for the main crossing and battle. All dates for the battle are pinned on a statement by Polybius in Histories III.54 that Hannibal reached the top of the pass about the setting of the Pleiades, which Lazenby takes to be "the first fortnight in November" and sets arbitrarily at November 1 in the Diary. Counting back the estimated time for events he arrives at September 25 for the crossing.
- ^ Lazenby (1998) p. 31, based on the 160 + 60 that transported Roman troops in 218 mentioned in Polybius Histories III.41. Livy on the other hand says the Senate voted the launching of 225 banked ships and 20 light galleys, History of Rome XXI.17.
- ^ Livy History of Rome XXI.17.
- ^ “Livy's History of Rome”. J. M. Dent & Sons, Ltd., London, 1905. p. 21.26. 2015年10月30日閲覧。
- ^ Peddie (2005) p. 14
- ^ Lazenby (1998) p. 32
- ^ Lazenby (1998) p. 33, from Appian Hannibalic War 1.4.
- ^ Peddie (2005) p. 18
- ^ Goldsworthy (2003) p. 160
- ^ Cottrell (1992) p. 44
- ^ De Beer, 1969, p. 122-3
- ^ Lazenby (1998) p. 35
- ^ Lancel (1999) p. 68
- 1 ローヌ渡河戦とは
- 2 ローヌ渡河戦の概要
- 3 ローマの準備
- 4 カルタゴの準備
- 5 参考文献
ローヌ渡河戦
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「ハンニバルのアルプス越え」の記事における「ローヌ渡河戦」の解説
詳細は「ローヌ渡河戦」を参照 ハンニバルの侵攻経路、特にアルプス越えの経路に関しては多くのが議論されている。しかし、現代の歴史家は、ハンニバルは渡河前にローヌ川の西岸に軍を野営させたということでは一致している。 ローマが迅速に行動せず、その同盟国の運命をカルタゴに委ねている間、ローマ同盟国のマッシリアはローヌ東岸の部族を奮起させることに忙しかった。カルタゴ軍のマッシリアへの接近という情報を得たプブリウスは、イベリア遠征という当初の計画を取りやめ、ハンニバルのローヌ渡河を阻止するという次善の策をとることとした。まず、ハンニバル軍の正確な位置を探るため、騎兵300からなる偵察隊をローヌ西岸に送り出した。また、ハンニバルも執政官が率いるローマ軍(歩兵22,000、騎兵2,000)が到着したことを知った。ハンニバルは、ローヌ西岸の部族がローマに対して持っていた憎悪を利用し、この困難な渡河を支援するように説得した。まず現地のケルト人から海上航行もできる多数のボートに加え多くの種類のカヌーを確保した。これらを購入したのに加えて、作戦のために新たなボートも作成した。この渡河準備は2日間で完了した。 ローヌ西岸のカルタゴ軍を待ち受けていたのは、カバレス族(Cavares)またはヴォルカエ族(Volcae)というガリア兵であった。この部族はローヌ川の反対側に防御された野営地を作り、ハンニバルの渡河を待ち受けていた。ハンニバルが戦術的、戦略的な双方の観点からアレクサンダー大王のヒュダスペス河畔の戦いを学んでいたことは間違いない。ハンニバルの渡河は、これをそのまま再現するように実施された。将軍の一人であるハンノに北方に迂回して適切と思う地点で渡河し、その後南下してハンニバルの渡河中にガリア兵の側面を攻撃するように命令した。 ハンニバルが渡河用の舟艇を確保した後、ハンノはガリア人の案内を連れてローヌ川を北上し、約25マイル上流の現在のポン=サン=テスプリ付近に達した。そこには川の中に小島があり、2つの小さな流れに分断されていた。ハンノはここで渡河することを決断し、そこで手に入る材料で舟艇を作るよう命令した。兵士は木を切り倒し、持参してきたロープでくくり合わせて筏を作った。渡河が終わると、ガリア軍野営地に向かって直ちに南進を開始した。 この間にハンニバルはローヌ川渡河の準備を完了した。この渡河準備はあえて騒々しく行われた - ハンニバルはハンノが上流で渡河してガリア兵攻撃に向かっていることを知っており、準備を秘匿する必要はないと命令した。渡河準備をガリア兵に察知させることにより、彼らの関心をハンニバル自身に向けさせ、側面を警戒させないためであった。3日後にハンノの分遣隊がガリア兵の背後に現れ、事前の打ち合わせの通りにその到着をハンニバルに知らせた。これを受けてハンニバルは直ちに渡河を命じた。ハンノの分遣隊は本軍の動きを観測しており、本軍が渡河を開始するとカバレス族への攻撃を準備した。 渡河が円滑に行われるよう、作戦は細部まで考慮されていた。最大の舟艇には騎兵が乗馬したまま載せられて最上流を渡った。その下流を下馬した騎兵を載せた騎兵が渡河し、多くの馬は舟艇の横を泳いで渡ったが、いくらかは渡河後に直ちに戦闘できるように、船に乗せられていた。このため、渡河直後に歩兵を支援してガリア兵を攻撃することができた。 カルタゴ軍の渡河を見て、ガリア兵は塹壕から出て、カルタゴ軍上陸地点に近い河岸沿いに兵を配置した。カルタゴ軍が川の半ばまで達すると、両軍の兵士共に喚声を上げ、お互いをののしった。これらの行為は戦闘前に自軍の兵士の士気をあげるためのものであり、盾を武器でたたき同時に大声をあげて大音響を響かせた。 カルタゴ軍が川の半ばにさしかかり、敵からののしられているまさにその時、ハンノの軍が出現しガリア兵の背後および側面への攻撃を開始した。一部はガリア兵の野営地に放火に向かったが、大部分は驚いているガリア兵に突撃した。ガリア兵の一部は野営地を守ろうと引き返し、大部分は河岸にとどまったため、軍は分断されてしまった。ハンニバル自身は第一波と共に混乱するガリア兵の前に上陸した。ガリア兵は軽微な抵抗をするのがやっとで、前後からカルタゴ軍に包囲され大混乱に陥った。兵士は自身の安全を考えるのがやっとで、カルタゴ軍のファランクスに粉砕されて撤退した。実際の戦闘時間はわずかであったが、この危険でリスクが高い作戦の準備のためにハンニバルは5日間を費やし、残存リスクを最小限にしてから行動を起こしたのである。
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