ヤンマー
ヤンマーディーゼル
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早稲田大学を率いて天皇杯制覇、関東リーグ4年連続得点王の実績から多くの企業から誘いを受けた。特に三菱重工(後の浦和レッドダイヤモンズ)からの勧誘は熱心で、大学の同僚の森孝慈が入社を決めた事で三菱入りへ傾いたが、ヤンマーディーゼル(後のセレッソ大阪)の山岡浩二郎サッカー部部長や早大の先輩で関西の実力者、川本泰三の勧めもあり、1967年4月、ヤンマーに入社する事になった。同い年で同期入社の水口洋次は無二の親友。日本サッカーリーグ、豊田自動織機戦でデビューを飾ると、この試合で初得点を決めた。関西の弱小チームであったヤンマーを釜本の強い個性で牽引していった。また同年5月には日系ブラジル人のネルソン吉村(後に帰化し吉村大志郎と名乗る)が加入。吉村の南米出身者らしい柔軟なボールタッチは目を見張るものがあり、釜本も吉村との練習や試合中で、貪欲に学習した。会社も釜本や吉村を始めとした選手補強や、施設の整備や選手の待遇改善などの支援を積極的に行い、やがてリーグを代表する強豪へと成長していった。 1969年1月天皇杯で三菱重工を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる活躍で初のビッグタイトルをもたらした。 釜本邦茂 堀井美晴 今村博治 阿部洋夫 吉村大志郎 ジョージ小林 田上敏之 水口利男 浜頭昌宏 松村雄志 垣内輝久 1975年12月14日、JSL第18節三菱重工戦のメンバー。 ヤンマーや日本代表での活躍(後述)など順調な成長を見せていた釜本であったが、1970年にウイルス性肝炎を患い選手キャリアを中断、入院生活を余儀なくされた。復帰後も度々故障が続くなどコンディションが完全に回復するまで3年間を有したが、前述の吉村を始めとしたブラジル出身者と、それに刺激され徐々に実力を付けた日本人選手の奮闘もあって1971年には日本リーグと、天皇杯の二冠を獲得した。 そして、病気が完治するとGK西片、DF北村、松村、浜頭、水口、MF吉村、小林、阿部、FW今村、釜本、堀井らの、ほぼ不動のメンバーを擁して1974年、1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯制覇に貢献。釜本自身も1974年10月20日の日本リーグ、対三菱戦において通算100得点を達成した。この頃には試合の流れを読んだゲームメイクやチャンスメイクも担当する様になり、また若い頃の様な豪快なプレーだけでなく、相手ディフェンスのマークを一瞬外し、再びゴール前の危険地帯へ飛び込む「消える動き」も身に付けるなど 第2の最盛期を迎えた。 1978年2月、ヤンマーの選手兼任監督に就任、全盛期を支えた選手達が少しずつチームを去る節目の時期でもあった。若手の楚輪博の成長もあって、釜本はゴール前での得点に専念する様になった。そして1981年11月1日の対本田技研戦において通算200得点と201得点を記録。この2得点はいずれも楚輪のアシストから生まれた。 その後、1982年5月20日対マツダ(後のサンフレッチェ広島)戦で右足首アキレス腱断裂。8月11日、練習中に同じ個所を切り選手生活の危機に直面した。そして1年半後の1983年11月3日、日本リーグ対読売クラブ(後の東京ヴェルディ)で復帰を果たし、1984年1月1日の天皇杯決勝、対日産自動車(後の横浜F・マリノス)戦に後半途中出場。これが公式戦最後の試合出場となった。 同年8月25日の「釜本邦茂引退試合」、ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦は、東京・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に6万人の観衆を集め行なわれた。ゲスト・プレーヤーに往年のスター選手ペレとヴォルフガング・オヴェラートを迎えた試合は、釜本自身が前半15分に得点を決め引退の花道を飾った。試合後の競技場にはサポーターから「釜本コール」が鳴り響いた。
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