メルロ‐ポンティ【Maurice Merleau-Ponty】
メルロポンティ
モーリス・メルロー=ポンティ
(メルロポンティ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 07:21 UTC 版)
モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908年3月14日 - 1961年5月3日)は、フランスの哲学者。主に現象学の発展に尽くした。著書の日本語訳等においては、「モーリス・メルロ=ポンティ」、「モーリス・メルロ・ポンティ」など、Merleauに長音記号を付けない表記が多く用いられている。
- 1 モーリス・メルロー=ポンティとは
- 2 モーリス・メルロー=ポンティの概要
- 3 主な著作と訳書
- 4 関連項目
- 5 外部リンク
メルロ=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 01:54 UTC 版)
「フランス現代思想」の記事における「メルロ=ポンティ」の解説
メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えようとした。彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判する。その前提となる、デカルト的なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずである。彼は、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきであると主張する。主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である両義的な存在、それが身体である。生理的な反射でさえ、生きた身体が環境に対して有する全体的態度、意味の把握を伴うし、その全体性は決して私の反省的意識に還元し尽くされることはない。私と世界の間の身体による関係は、全体的な構造であるばかりでなく、時間的に発展する構造でもある。彼にとって即自存在と対自存在の対立は、以上のような構造を有する、より一層深い媒介の所産なのである。 このようなメルロ=ポンティの身体論はジークムント・フロイトの精神分析思想と容易に結びつく。このような構造に関する理論が身体論に適用されるだけでなく、これを超えて社会と個人の関係に拡張されるまでには、それほどの時間を要しなかった。メルロ=ポンティは構造主義の精神分析家ラカン、文化人類学者レヴィ=ストロースと交流があった。
※この「メルロ=ポンティ」の解説は、「フランス現代思想」の解説の一部です。
「メルロ=ポンティ」を含む「フランス現代思想」の記事については、「フランス現代思想」の概要を参照ください。
メルロ=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:17 UTC 版)
メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えようとした。彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判する。その前提となる、デカルト的なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずである。彼は、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきであると主張する。主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である両義的な存在、それが身体である。生理的な反射でさえ、生きた身体が環境に対して有する全体的態度、意味の把握を伴うし、その全体性は決して私の反省的意識に還元し尽くされることはない。私と世界の間の身体による関係は、全体的な構造であるばかりでなく、時間的に発展する構造でもある。彼にとって即自存在と対自存在の対立は、以上のような構造を有する、より一層深い媒介の所産なのである。このようなメルロ=ポンティの身体論はフロイトと容易に結びつく。このような構造に関する理論が身体論に適用されるだけでなく、これを超えて社会と個人の関係に拡張されるまではそれほどの時間を要しなかったのである。
※この「メルロ=ポンティ」の解説は、「現代思想」の解説の一部です。
「メルロ=ポンティ」を含む「現代思想」の記事については、「現代思想」の概要を参照ください。
メルロポンティと同じ種類の言葉
- メルロポンティのページへのリンク