ミラノ・スカラ座時代
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「エットレ・パニッツァ」の記事における「ミラノ・スカラ座時代」の解説
1908年にはミラノ・スカラ座での指揮者デビューを成功させる。以降は第一次世界大戦前から戦後にかけて、トゥリオ・セラフィンが芸術監督に就任している時代のスカラ座で頻繁に指揮台に立ち、同歌劇場においてセラフィンやアルトゥーロ・トスカニーニと並ぶ名声を確立した。 1921年には、セラフィンの後任としてミラノ・スカラ座の芸術監督に就任したトスカニーニの指名によって、スカラ座の首席指揮者に任命される。パニッツァは1932年までスカラ座の首席指揮者を務め、トスカニーニのスカラ座での指揮活動を支えながら自身もオペラ指揮者として精力的に活躍した。 1926年にスカラ座でトスカニーニがジャコモ・プッチーニの遺作となった『トゥーランドット』の初演を指揮したとき、プッチーニが完成したところまでしか演奏せず、「ここでマエストロは息を引き取った」と述べて立ち去ったのは有名な話だが、この公演の2日目以降の指揮を任されたのはパニッツァであった。また、パニッツァはスカラ座の首席指揮者に就任した1921年に芸術監督のトスカニーニに対して、アントニーノ・ヴォットーをスカラ座専属のコレペティートルとして雇用することを提案して受け入れられた。 1932年にはスカラ座でリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』を指揮して成功をおさめ、シュトラウス自身から称賛の手紙を受け取った。シュトラウスはパニッツァに宛てた手紙において「小生は貴殿がミラノで指揮した、繊細さと情熱とに彩られた壮麗な『エレクトラ』を今も想い返し続けている。今年の夏にブエノスアイレスのテアトロ・コロンで『エレクトラ』の上演が予定されており、なおかつテアトロ・コロンでは貴殿が芸術監督に近く就任するとの由。それを知り小生は、ブエノスアイレスにおいて今一度、貴殿の指揮によって『エレクトラ』が上演されることを深く熱望している。小生は『エレクトラ』の解釈者として、貴殿以上の人材を想像し得ない。」と、パニッツァの『エレクトラ』指揮を手放しで絶賛している。
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ミラノ・スカラ座時代
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「クラウディオ・アバド」の記事における「ミラノ・スカラ座時代」の解説
1968年にミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任する。イタリア・オペラに限らず広大なレパートリーを高い質で提供しつつ、レコーディングにも取り組んだ。スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を設立してオーケストラのレベルを格段に上げたことは特筆される。ウィーン転出を機に1986年に辞任する。なお、アバドはイタリア・オペラでもプッチーニやヴェリズモ・オペラは取り上げないなど、独自のこだわりを持っている。一方では、1960年代までは『セビリアの理髪師』以外は上演機会が少なく存在感の薄い存在だったロッシーニを積極的に再評価し、いわゆるロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となった。
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ミラノ・スカラ座時代
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「リッカルド・ムーティ」の記事における「ミラノ・スカラ座時代」の解説
1986年、クラウディオ・アバドの後任として音楽監督に就任する。就任後は極めて強力な改革を推し進め[要出典]、スカラ座の復権・復興に効果[要出典]を上げた。カラヤンの失敗以来、各指揮者が敬遠していた「椿姫」をティツィアナ・ファブリチーニの起用により上演し、封印を破ったことは特筆に価する。その後もEMIやSONYに多くのオペラ録音を行って足跡を残す。ブーイング集団を秩序維持のために場外に追いやって物議を醸すなど、一部常連客らとの対立もあった が、ムーティはスカラ座に長期にわたって君臨した。 しかし2005年3月16日に、スカラ座の管弦楽団員と職員の投票により圧倒的多数で不信任を表明される。これは、スカラ座総支配人カルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、先んじる同年2月にはフォンターナが免職される結果となっていた。ムーティは投票に先立ち演奏会をキャンセルするが、フォンターナの支持者との絶え間ない亀裂のためにその他の公演も立ち行かない状態だった。同年4月2日にスカラ座を辞任した際、ムーティは職員からの「敵意」を辞任の理由として挙げていた。ムーティがベルルスコーニ首相と親しい間柄であるのに対し、フォンターナは左派に属する ことから、この抗争自体芸術面でのそれというより高度に政治的なものだったとの見方もある。
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